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第18話

「ええーっ、フィーくんうちの担当辞めちゃったのぉー!?」  下からわざとらしいマスターの声が聞こえてきたが、エウレは窓辺に腰かけたままイーリの柔らかな背を撫でていた。時折エウレを気にしながら見上げてくるタヌキに似た魔獣が何を考えているのかは分からないが、どうやら心配をしているらしい。  エウレを庇おうとして深手を負ったフィーデスを術で治してから、本調子ではないからとフィーデスが術士ギルドに顔を出すことはなかった。そうして今日、とうとう別な担当者が派遣されてきたらしい。いつもなら些細なことだと切って捨てていたというのに、己が拒絶した結果にエウレは思ったよりも自分が衝撃を受けていることに動揺していた。元々フィーデスのことは嫌いではなかった。自分を裏切ったのだと思ってからは疎んじていたが、再会してからというもの、短い間に彼の青年はあっという間に再びエウレの心の中に入り込むようになっていたのだ――数日前までは。  今でもフィーデスが嫌いになったわけではない、と思う。  だが、フィーデスの行動はエウレが必死に見ないふりをして忘れようと逃げ続けてきた過去の傷を抉り、その瘡蓋を無理やり剝がしてしまったのだ。 「おっ、いないかと思ったらここにいたのか。新しい護霊官があいさつに来ているよ。……辛い?」  いつも飄々としている兄弟子だが、こういう時はやけにエウレの感情に聡かったりする。必要な時を分かっているかのようたタイミングで声をかけられ、エウレはイーリを膝に乗せたまま頷き返した。 「ま、オレから見てもお前たち結構いいパートナーになりそうだったもんな。何があったのか分からんけど、落ち込んでいる時こそ遊びに行こうぜ。マスターもフィーデス君が来ないんじゃ仕事する気分になれないとかぶつぶつ言ってたし」  するりと膝から降りたイーリも出かけよう、というように鳴いてきた。  ここからもう動けないような気持ちでいたエウレに近づいてきた兄弟子は笑いながらエウレの腕を掴んで窓際から降ろすと、そのまま部屋を後にする。  各ギルドが入っている建物が多い地区の隣に王都最大の市場が接している。海に面しているので船を使った交易も盛んで、日替わりのようにめずらしい商品が立ち並ぶのも見ることができた。  威勢の良いかけ声で活気づく小売りの店が立ち並ぶ中を、人ごみを上手にかき分けながら兄弟子が機嫌良さげに歩いていく。 「ほら、ここ! めずらしい氷菓子が食べられるんだ。昨日初めて食べてみたらすごい美味しくてさ」 「……すごいな、本物の氷だ」  一年を通して気候が温暖なこの国では雪が降ることもなく、当然氷を見ることはできない。高い山が連なる隣国まで行けば見られるという話だが、エウレは生まれてから一度もこの国から出たことはなかった。兄弟子が指さした店の方を見やると、高く盛られた小さな粉雪のような氷の上に色とりどりの果物が飾り付けられていて見た目にも美しい。その上から赤い果実のシロップのようなものがかけられていて、人々の興味を誘っている。 「それ、二つちょーだい」  兄弟子は慣れた風に今作られている途中のものを指さして注文すると店主が異国の言葉で返事をしてくる。こういう掛け合いに慣れているのを見ていると、兄弟子のハヴァッドは術士というより商人の方が向いているような気がする。そういえば、彼はもともとこの国の出身ではないとも聞いた。  思っていた以上に冷たい器に辟易しながら、海を見渡せる小高い丘で氷をつついていると、兄弟子は唐突に苦笑した。 「お前さ。もうちょっと自分に優しくなったらいいんじゃないのって思うよ。フィーデス君のこととか、魔獣事件で命を落とした人のこととか、全部自分のせいみたいに思っているだろ」 「そんなことは……」  自分でもそうはっきりと認識していなかったことを指摘されて、慌てて顔を上げたエウレを兄弟子が少し疑うように覗き込んでくる。 「第一、お前が昔酷いことをされたことにだってさ、自分の特異体質のせいだとか思っているもんな。……ンなわけあるかよ、エウレがそういう体質を持っているからって、酷いことをされていいわけじゃないんだ。マスターもオレもイーリたちもさ、お前のことが大事だよ。でも、エウレ自身が自分に優しくしてやらないとさ。自分以上に自分のことを、かわいそうだなって、大丈夫かなって思ってくれる奴なんていないんだからさ」 「……そういうものなのかな」  そうそう、と兄弟子が美味しそうに果物を頬張りながら深く頷き返す。マスターも兄弟子も――おそらく、イーリたちもエウレの特異体質のことを知っても化け物と糾弾するどころか、「面白い」と笑ってくれる。そして――フィーデスは、綺麗だとも言ってくれた。

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