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第27話

 日が落ち、すっかりと暗くなった学院の敷地に足を踏み入れても咎めるものは誰一人いない。馬から再び人の姿に戻ったハヴァッドもさすがにこの異様な雰囲気を察していた。 「守衛が一人もいない。こんなんで大丈夫なのか、ここ」 「あらあ、わたし達をお出迎えしてくれるってことなのかしら? ……なるほどね、自分ひとりの力じゃこんなことはできないだろうけど、あの馬鹿弟子の無制限に近い力を使えば簡単かもね」  シヴィの言葉に、先を進んでいたフィーデスが振り返った。軽い口調とは反して、相変わらずシヴィの顔は真剣なものだ。 「人の意識に干渉することができる者なら、そのくらい容易いわ。自分の力を使い続けるより、少しの力で強い力を持つ者の意識に入り込んで力を自分のものとしてコントロールする。それくらいできるのは夜の世界にはごろごろいるし、簡単に意識を取られるようなら修業が足りなさすぎるのよ。でも、誰だって生きているから……知られたくない、見られたくない――思い出したくもないところを攻撃されたら、根をあげちゃうかもしれないわね」 「親方がまるで人間みたいなことを言ってますね」  先ほどまで黒馬に変じてずっと疾走してきたというのに、息を切らせることもなく飄々とした口調でハヴァッドが揶揄するとシヴィは思いっきりハヴァッドの耳を引っ張る。  彼らをここまで連れてきたイーリだったが、ついに動きを止めた。どうやらこれ以上はイーリにも分からないらしい。必死に鼻を空中に向けて何かを嗅ぎ取ろうとしているが、エウレの匂いは途絶えてしまったようで蹲ってしまう。まるで泣いているような、落ち込んでいるようなその様子にフィーデスが抱き上げるとシヴィがイーリの小さな頭を優しく撫でた。 「貴方、本当にエウレのことが大好きで心配なのね。でも、もう大丈夫よ、やたらと綺麗な空気のおかげで――不似合いな気配が、逆に分かりやすくなっているから」  そうシヴィが言った時――フィーデスの足元にいつぞやの役所の中や、森の中でも見た黒い穴が開き、落ちていく感覚もないまま別な場所へと飛ばされていった。  どうやら学院のどこかの部屋の中らしいが、吐き気を催しそうな酷い血臭にフィーデスは己の口元を押さえた。それから部屋を見回そうとするが、それよりも先にするりとイーリが腕から抜け出して駆けて行ってしまう。 「あれ、お客様だ。どうやって入ってきたのかな? まさか『アクィア』が呼び寄せたとか?」  フーッとイーリらしい獣の威嚇する声がする。そちらへと振り向くと一斉に室内が明るくなり、一人の男の姿を浮かび上がらせた。 「エウレ!!」  そして、立っている男の隣には大きな椅子が置かれており、そこには目を見開いたまま微動だにしない――そして、本当の姿を晒したエウレが座っていた。座っているというよりはもたれるように寝ているかのようだが、呆然と見開かれたその綺麗な両眼からはとめどなく涙がこぼれ続けている。むき出しになった両腕、そこに刻まれている紋様は淡く光っており、確かにシヴィが言っている通り男がエウレの力を利用しているようだった。 「……貴様がアッチェに化けていた魔族か」 「おや、魔族だってこともばれちゃっているのか。君たちのことだから術士の一人ぐらい消えたってそのまま見過ごしてくれるかな~って思っていたんだけど。『アクィア』が気に入っているだけあるね。ああ、君も『アクィア』のことが大好きだもんね、自分のものにしたいと思うくらいには」  揶揄するような男の話にもフィーデスは乗らずに無言で相手を観察した。  アッチェに成りすましていた男はシヴィのように黒い髪をしているが、シヴィたちと比べて下卑た感じが表情に出ている。魔族はフィーデスが揶揄いに乗ってこなかったことに肩を竦めると、おもむろにエウレの薄水色に変化した柔らかな髪を手ですくい、口づけてにんまりと笑った。 「今ね、彼にとっても素敵な悪夢を見せてあげているんだよ。彼の尊厳とか、そういうものをボロボロにされた時の、ね」 「イーリ!!」  フィーデスが動くよりも先に、男に噛みついたイーリだったが男は煩わし気に腕を振るとあっけなくイーリは壁に叩きつけられた。フィーデスが駆け寄り、抱き上げるとイーリは弱々しく鳴いてそれでも必死にエウレの方を見ようとする。黒に近い茶をしたイーリの小さな瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちていき――やがてその涙はフィーデスの袖に溶け込んでいった。

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