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第2話

初めてその家に行ったのは、正体を失くす程に酔っ払った主任を送り届けた夜の事だった。 2人目が出来たんだよ、と内緒話のように告白し、やっぱり嬉しいよね、と珍しく中ジョッキをお代わりする主任をなんの感慨もなく眺めていた事を覚えている。 「あらあらすみません。この人弱い癖にね。酔っ払うまで呑むなんて珍しいわね」 玄関先まで迎えに来た幾分か年上だという主任の嫁さんの腹はなるほど少しだけ膨らんでいた。上の子はもう眠っているのか、綺麗に片付けられた玄関の向こうからは物音ひとつしなかった。 幸せそうに眠りこける主任の肩を抱え、ありがとうございます、と笑う女の顔を見る。その瞬間、もう二度と、この先主任がどれだけ酔っ払ったとしてもこの家に送り届けるようなことはするまいとぼんやりと心に誓った。 ※※※※※※ 別に品行方正に生きてきたわけではない。 学生の頃はそれなりに馬鹿をやったしそれなりに遊んだ。 だが、本当に品行方正に生きてきた人間は、どこで羽目を外したり、どこで欲を吐き出すのだろう。 捌け口が見たい。 この男が、欲を吐き出す様を。 きっかけはそんなものだった気がするが、もうよく覚えていない。 「…なんすか」 人気の無い物置部屋は雑然と物が積み重なっている。社内の全館に効いている筈の空調は壊れたまま放っておかれているのか、ただ立っているだけで蒸し暑く、背に汗が流れる気配を感じた。 夏服の腕を緩い力で掴み、その部屋の更に隅に導いたのは主任の方だと言うのに、主任は何かを言い澱んでいるらしく、うつむき加減に目を伏せたまま口を開けたり閉じたりを繰り返していた。 「……奥さん、帰って来たんでしたっけ」 びくりと肩が跳ね上がる。 何も不味いことを聞いたつもりではない。だが、そうだ、といつもの様に呑気な顔で笑う事を想像していた訳でもない。 主任が何を言いたいのかを、自分は知っている。 「…うん。もう、2ヶ月前に」 「2ヶ月、」 指を伸ばす。 薄い夏のシャツ、襟元に触れて首筋をなぞる。片方の指はネクタイの根元にかかり、ほんの僅かに緩めながらわざとらしい動作でカラーの中の首筋を覗き込んだ。普段シャツやスーツの中に隠している、やや肉眼的な身体からふわりと汗の香りが漂う。 「2ヶ月も経ったら消えちゃうんですね。痕」 最後に寝たのはいつだったか。 その晩もいつもの様に、この年上の男の身体を思う様犯し、貪り、そして痕を刻んだ。 やめてくれとは言われたことが無い。 自分に教え込まれ、刻まれる快楽を享受し、愉しむ目はもう2ヶ月見ていなということか。 「当たり前だけど、」 年下の無邪気さを作って笑う。 随分と辛抱した。 主任も、そして自分も。 「…うん。…だから、」 絞り出すような声だった。 今や2児の父となり、仕事にますます精を出し、部下からの人望は厚く、ついでに人気もあるこの整った顔の上司が、社内の片隅で微かに欲情した眼差しを自分に向けている。欲の捌け口を求め、いたぶられる事を望みつつも、それを口にするはしたなさに目元を紅潮させている。 ただそれだけで、行為に及んでもいないのに欲情する自分を感じた。 「だから?」 いつの間にこんなに淫らな目をするようになったのだろう。わかっているだろうと語る瞳に素知らぬ振りをする事も難しいと思える程に湧き上がる興奮を押し殺し、浅く息を吐き出した。 「…また、…付けてくれないか、」 欲しい、と自分から口に出すまでは赦さない。1番始めに教えた事を思い出す。 主任の手が腰元へと伸び、相貌を覆うように唇を塞がれた。背の高い年上の男の目に浮く色に内心でほくそ笑んではその口付けには応えず、シャツの襟に無理矢理鼻先を埋め、カラーに隠れるか隠れないかの瀬戸際に強く唇を押し当て、吸い上げた。 「っ、」 「ね、主任。痛いのと気持ちいいの、どっちが好きですか?」 首筋へのキス1つで崩れ落ちそうになる膝を懸命に支えながら、問い掛けに首を傾ける。 痛みと快楽と。 平穏無事な日々と、自分と淫蕩に耽る夜と。 どっちが。 「……どっちも」 好き、と落ちる声は思い出したように動き出す壊れた換気扇の音にかき消されながらも確かに自分の耳に届いた。 あまりに素直に返る言葉に思わず噴き出す自分の姿に、改めて羞恥が湧き上がったのか再び伏せられる目に褒美を与えるように唇を塞ぐ。 「今日、飲みに行きましょうか」 「……うん」 たとえ大酒を食らって酔っ払ったとしても、あの家には返さない。 何せ2ヶ月も我慢したのだ。自分にも主任にも、捌け口は必要だ。 痛みも快楽も、安定の日々も淫らな夜もどちらも欲しいと口にする、顔に似合わない貪欲さと、どこか漂う無垢な目が今の主任を構成しているのかもしれない。ぼんやりと思いながら、首筋に宿ったばかりの朱を確認しては目を細めた。

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