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第9話
雨音で目が覚めた。
狭いベッドの上、隣で眠っている筈の体温を求めて手を泳がせるも、虚空を掻いたりシーツを泳ぐばかりの感触に重たい瞼をようやく開ける。のろのろと起き上がり、間接照明の灯る薄暗い部屋を見渡すも、いるはずの人間の姿は無く、側のローテーブルの上にはメモ用紙が1枚置かれていた。
「…あー…」
起こさないで行きます。また明日。
短い書き置きに律儀さが滲み出ていた。時計は日付が変わる頃を指している。恐らく終電に間に合うように部屋を出ていったのだろう。疲れが溜まっていたわけではないが、好きなだけ身体を貪った後にすっかり眠り込んでしまったらしい。
「…別にいいんですけどね、」
セックスの後のピロートークのようなものはしたことがない。
別に見送りだの別れ際のキスだのをする間柄でもない。
どうせ来週の木曜の夜にはまた同じような夜を迎えることになる。
もっと言えば、明日も、来週も、毎日職場で顔合わせる。
夜の終わりに顔を見られなかった事など些細な事だ。気に留めるようなことではない。ただほんの少しだけ何かが足りない。残された煙草の香りが彼が出て行ってまだ間もない事を物語っている。共に過ごす夜の数時間のその間に、目を離して眠りこけていたことへの不覚に眉を寄せた。
眠る自分の隣で、彼が朝を迎えることはない。折り目正しく終電で帰り、残業だったよと嘯く不誠実さの要因は自分であるというのに、その不実な夜の終わり、彼がどんな顔をして帰ったのかを見る事が出来ない事が妙に悔しかった。
寝直そうか。手にしたメモをテーブルに戻し、水が欲しいと下着1枚でワンルームの床を踏み出そうとしたその時だった。
「…あ、」
鍵のかかっていない無防備なドアが開き、自分の隣で眠っていた男の姿が現れた。小さく目を見開く自分の姿に気付いた男もまた驚きに瞠目してから情けなく眉根を下げて笑う。歩み寄り、玄関の照明を点けてよく目を凝らすと、彼は頭からシャツまでびっしょりと水に濡れていた。
「…何してるんですか。主任」
「急に雨が降ってきてね、…傘、貸してもらいたいなって」
ーーーどうやら雨はついさっき降り出したらしい。苦笑混じりに髪の雫を払う男をいささか呆然と見上げた後にふと口元を緩めて笑う。
「傘貸すのはいいけど、もう終電行ったんじゃないですか?」
壁の時計を示す為に顎をしゃくる。あ、と動く口元を見つめては笑いを堪えて無表情を繕う。濡れた夏のシャツの肩口や胸元から、数時間前まで触れていた肌が透けていた。
こんな時間にこんな男の家に戻ってくるなんて間違っている。だが、こんな格好で他のどこかに行かれても困るのは確かだ。
「…だから、…目を離せないんですよね」
不実さは夜を追うごとに増していく。
髪を拭き、シャツを乾かしたところでこの男には今日帰る術は残っていない。困ったように佇む男の前髪に指を伸ばして滴を掬い、自分の口元に寄せた時、ああそういえば水が欲しかったのだと思い出した。
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