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第11話

きっかけは今でも覚えている。 直属の上司とはいえ、仕事上以外の関係を持とうなどとは思ったことはなかった。それは高坂に対してのことだけではない。仕事とプライベートはきっちり分ける。混合すると必ず面倒が起こる。住吉の経験値が知っていた。今に始まったことではない。高校の時には既に学校の外に遊び仲間を作っていたし、大学時代につるんだのもやはり学友以外の人間だった。校内に友人がいなかったわけではない。だが、1歩外に出るとその関係が急に煩わしくなる。自分の学校外の姿を知られたくないだとか、今時の若者だとか、誰に対してもドライに対峙する性分だとか、やがて自覚することになる自分の性癖だとかが混ざり合い、住吉の人に対するスタンスを築き上げ、確立させていた。 だから高坂に対しても同じだった。 そこそこーーー10歳近く年上の上司。その穏やかな顔立ちや立ち居振る舞いからは始めは想像が出来なかったが、いわゆるデキる上司だという印象だった。順当に行けば今の主任職に収まらない男ではないと誰もが思っていた。その上面倒見が良く人当たりも良い。押しに弱そうだとは思ったが肝心な所で芯はあるらしい。おまけに嫌味ったらしくない。偉ぶらない。 本当にそんな出来た人間がいるのだろうかと訝しんだこともある。もしかするとこの上司も穏やかな顔の裏があるのかもしれない。公的な顔と私的な顔の違いが大きい人間は珍しくはない。だが、その落差が激しくない人間も存在することはするだろう。にこにこと、時に真摯に職務を全うする人間の裏の顔が見たい。いつしか漠然と思ってはいたが、住吉もまた、何か動く程の興味を持ってはいなかった。 喫煙所が廃止されるらしいとか、更に分煙を厳重に行うとかで、社屋の中の喫煙所が一斉に工事に入ってしまったのは幸いにも夏の始めの時期だった。 住吉は煙草は吸わない。正直な所、20歳になる前に手を出し、今に至るまでに飽きてしまったというところだった。興味を失ったと言ってもいい。住吉は何事にも興味は薄い。今は時々思い出した時に吸う程度だ。喫煙者を徹底的に排除しようとする今の風潮には丁度良いと思っているが、やはり社内には喫煙者は少なくない。とりあえずの手段として屋上に設けられた喫煙所を目指す人間達で階段は多少混みあっていた。 高い所は好きだった。人の目や午前中の業務に疲れた時に時折上がる屋上が賑やかになるのは住吉にとってはた迷惑でしかなかった。灰皿のある場所から離れ、巨大なタンクが設置されている物陰に座り込む。今日は初夏らしくない陽気で、日陰に入ってようやく涼しい風を浴びることが出来た。 「ーーーうん。そう、…じゃあ、体大切にしなきゃね。今日何食べたい?え?お祝いしなきゃ」 電話の声と煙草の匂いが風に乗って住吉の元へと届いてきた。声は徐々に近付いてくる。足音は1つで、男の声に相槌を打つ声はない。喫煙所にいた男が電話を取ってその場を離れたのか。場所を変えようか、と眉を顰めて立ち上がりかけたその時、やってきた男と目が合った。 高坂だった。 スマホを耳に当てたまま住吉を見下ろした目は少し驚いたように見開かれ、その後にまたいつもの柔和な笑みに戻り、白筒を挟んだ手をひらりと掲げる。電話の邪魔をする理由はない、と腰を浮かせつつ聞くとはなしに高坂の声に耳を傾けた。 「ん。ケーキね。ママ…、史華さんは相変わらず甘い物好きだね。わかった。じゃあ、」 スマホが耳から離れる。画面を指先で操作してからそれをポケットにしまい込んだ高坂は代わりに携帯灰皿を取り出しながら緩く首を傾けた。 「ごめんね。邪魔したかな」 「…いえ、」 用意周到なのかそれとも性分なのか、手にした灰皿に通話中に伸びた灰を落とす指先をぼんやりと見上げる住吉に高坂が眉を下げる。その後すぐ、ごく自然に自分の隣に腰を下ろしたものだから、住吉は立ち上がりにくくなってしまった。 「…大変っすね」 「ん?」 「喫煙所」 沈黙を嫌い、無理に話題を探して投げる。灰皿のある方向からはまだ人の話し声が聞こえてくる。昼休みの時間は残り少ない。 「ああ…。廃止にならなきゃいいよね。今は良いけど冬は困るなあ」 のんびりとした声音は先程の通話の時のものとほとんど変わらなかった。膝を抱える形の住吉を見た高坂が小さく頭を傾け、自分の胸ポケットから煙草の箱を取り出して向ける。虚をつかれた住吉が一拍間を置いた後に、じゃあ、と1本抜いた。 「住吉くんは普段は吸わないの?」 「…ええ。…主任は、吸うんですね」 知らなかったことだった。 真面目一辺倒だと思っていたこの上司と煙草のイメージは重ならない。だが、今自分の隣で紫煙を吐き出す所作は様になっている。手渡された100円ライターで穂先を焦がす。想像よりも重たい吸い心地に危うく噎せ帰りそうになるのを堪えた。 「うん。やめようやめようと思ってはいるんだけどねえ。家でもベランダだし」 「…お子さん、いるんでしたっけ」 返したライターを不器用そうな手付きでしまい込む左手には細いリングが嵌っていた。高坂を慕う女性社員は多いが、浮いた噂がないのはそういう事だ。とっくに結婚していて、一児の父親。それくらいは住吉の耳にも入ってくる。苦笑混じりに落とす声に住吉は相槌代わりに浅く頷いた。その動作を横目に見た高坂が不意に笑みを深め、短くなったフィルターを唇に寄せる。 「今ね、奥さんから電話で妊娠したって言われたんだよね」 「……ああ…、それで、」 体を大切にとかお祝いとか言っていたのはそういう事か。嬉しげに目元を下げる高坂に納得してまた顎を引く。なるほど会社では良い上司、家では良いパパなのだろう。奥方に言われるままにベランダを喫煙所にするような旦那。その上2人目が出来たのならますますその肩身は狭くなるだろうに。だがきっとそれは些細なことなのだろう。この高坂の笑顔を見ていればわかる。ふうん、と鼻から息を逃してから高坂の差し出す携帯灰皿に伸びた灰を落とす。久方振りに吸う重たいタールの煙草はなかなか減らない。 「それは…おめでとう、ございます」 「あ。ありがとう。住吉くん」 ますます照れてはにかむ高坂を見遣る。緩く首を傾け、指に挟んだ白筒をひらひらと掲げて見せた。 「止めなくていいんですか。これ、」 示された物に高坂がまた苦い笑みを浮かべた。その雰囲気が昔家にいた大型犬を彷彿とさせ、住吉はついゆるゆると目を瞬かせる。 「なかなかねえ…。悪いことって、なかなか止められないよね」 悪いこと。 そうか、この上司も悪事を働くことがあるのか。 たとえそれがどんな小さな事でも悪事は悪事で、1度手を染めたらやめられない。たとえ、それがこのよく出来た上司でも。 「…そっすね、」 素っ気なく呟き、フィルターを高坂へと向ける。戸惑いがちに受け取る指先を確かめてから住吉はようやく立ち上がった。 「トイレ行くんで。ご馳走様です」 「ああ…、うん。また後でね」 まだ3分の1残る白筒を自分の唇に寄せる高坂を1度見下ろし背を向けた。 昼休みはもうじき終わる。 口の中に残った苦味を舌でなぞり、今見た上司の些細な悪事を反芻した住吉は唐突に、先週末に恋人と別れたことを思い出した。

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