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第13話
急な雨が降り出した時間は、まだホテルへとしけ込むには早過ぎた。足を踏み入れた歓楽街の軒下を借り、しばらく雨宿りをしてみたものの土砂降りの雨はまだ止む気配がない。煙る街並みを眺めつつ、どうしたものかと眉を寄せた後に、あ、と何かを思い出したように呟いた住吉が前触れも無く高坂の手を取り、軒下を飛び出した。
「走ります」
恋人がするそれとは程遠く、高坂の指をまとめて握り締めた住吉は振り返りもせずに告げる。既に駆け足になっている住吉に慌てて駆ける高坂の髪からも水滴が跳ねた。
大通りの数本目の角を曲がり、住吉がようやく歩調を緩める。呼吸が乱れていない青年に対して高坂は少しだけ息を弾ませていた。細い通りの一角にある建物のドアを潜った住吉は、現れた細い階段を高坂の手を取ったまま慣れた足取りで降りていく。間接照明の点る足元を見ながら降りた高坂が辿り着いたドアに気付いて顔を上げると同時に、握られていた指は解放された。
「あら?…住吉!アンタ生きてたの?」
「…客を呼び捨てにしてんじゃねえよ」
開かれたドアの向こうは小さなバーだった。
落としすぎていない照明が広くはない店内とカウンターを浮かび上がらせ、そのカウンターの向こうでワインレッド色のイブニングドレスを纏った女が顔を上げるなりハスキーな声を上げた。応える住吉の口調が不意に砕けた事に若干面食らいながらも、店内に足を踏み入れる住吉の後に高坂が続く。カウンターから離れたテーブルは自分達と同じような男が2人陣取っていた。よく見ると1人の男の手は連れの男の腰に回されていて、高坂はようやく自分が普段使うようなバーとは少し違う店に入ったのだと気が付いた。
「しばらく顔見せないからどっかで腹上死してるんだと思ってたわよ」
「うるせえな相変わらず。いつもの」
「いつものってなんだっけ?」
背の高いスツールに腰掛けつつ、住吉の手は隣の椅子を引く。招かれるような形で腰を下ろした高坂にカウンターの向こうの女はにこりと笑いかけた。明るい色のロングの髪が軽く揺れる。
「ふざけんな。ボケたのかジジイ」
「ぶっ殺すぞ小僧」
「…ボケたのかババア」
互いに気を許した人間と思われる同士の応酬に高坂は呆気に取られている。速やかな訂正に女はふふんと鼻で笑い、モヒートね、と独り言のように呟いてから再び高坂を見遣る。
「そちらは?」
「…あ、じゃあ水割りで。薄めでお願いします」
少し照れ臭そうにはにかむ高坂に目を細めてから頷いた女が手元を動かし始める。客商売は長いのか、手を動かしながらも無口になることは無い。年の頃は40過ぎだろうか。高坂よりも少し年配といったところだが、日頃の手入れが行き届いているのか肌の艶はあり、おまけに顔は整っている。
「しばらく見ないと思ったら随分上等な男連れて来たわね。住吉」
「うるせえな。色目使うなよ」
高坂の方へと灰皿を押し遣りつつ住吉が女を軽く睨む。手元に合わせて豊かな胸が揺れる様が目に入り、高坂がやり場のない目をそっと逸らすも、その様子に気付いた住吉が眉を垂れた。
「しゅ…、…高坂さん。目、逸らさなくていいっすよ」
「え?」
「これニセ乳だから」
言われた意味を飲み込む間が空いた。逸らした視線を思わず戻す高坂の目にはドレスの間の谷間がはっきりと見える。住吉の言葉に女は不服そうに口を尖らせた。
「ちょっと。余計なこと言ってんじゃないわよ住吉」
「だって可哀想でしょ。気使って。ニセ乳なのに」
女のよく通るハスキーボイスにも、場末のバーのママにしては整い過ぎている顔立ちも、住吉の行きつけらしい店の種類にもようやく合点がいった高坂がなるほどと感心したように頷く側で相変わらずのやり取りが続く。舌打ちしながら住吉にモヒートを注いだグラスを寄越したた女は、今度はにっこりと笑って高坂に水割りを差し出す。
「すみませんねえ。口の減らないガキで」
「…いえ、」
「昔からこうなんですよ。昔、あ、この子ここでバイトしてたんですけどね、昔はもっとヤンキー臭かったんだけど聞いたらヤンキーじゃないって言うし」
なるほど、と高坂が内心でまた1つ頷く。慣れた応酬から覗く付き合いの長さの理由がわかり、高坂が嬉しげに隣の住吉を見やった。
「バーテンだったんだ?すごいね」
「…ホール。…学生の時」
余計な事を話すなと女を睨みつつグラスを傾ける住吉に高坂がますます笑みを深めた。冷えたグラスを唇に寄せ、少し酒を飲み込んでは淡い呼気を逃す。砕けた口調や、自分の知らない事を知ったこと、何より、住吉が住吉の縄張りの店に自分を連れて来た事が無性に嬉しかった。
「ーーーあれ?住吉?久しぶりぃ」
「…ちょっと。一服しててください」
自分達の背後、テーブルにいる男の1人が間延びした声を発した。名を呼ばれた住吉がそちらをちらりと流し見てから表情も変えずに椅子から降りる。歩み寄る前に高坂の肩に触れ、さらりと撫でつつ言い置いて住吉は二人連れの方へと行ってしまった。
「ああ。長いお客様だから。住吉あれでも人気あったのよ。愛想はないけど今よりはそこそこ可愛い顔してたし」
「ええ、」
胸ポケットから煙草を出そうか否かを迷っている間にカウンターの向こうから話し掛けられた。高坂もちらりと後ろを振り返るも、住吉はさして表情を変えずに男達と立ち話に興じている。
「…それにしてもまあ…本当に随分ちゃんとした男連れて来たわねえ…あの子」
「…そうですか、」
グラスを手に取る高坂をまじまじと眺めた女が感心して呟く。自分の分の酒が入ったグラスを傾け、苦笑い気味に眉を下げて続けた。
「あの子そこそこモテるんだけどなんていうかドライっていうか恋愛に興味ないっていうかねえ…適当にセフレ作って遊んだり、無駄に優しい所あるからそのセフレに勘違いされて付きまとわれたりね、そういう噂ばっかり耳に入って来るからいつか刺されると思ってるんだけどねえ…。ああでも、ここに連れて来るのは一応付き合ってる人だけって決めてるらしいんだけど」
「ーーー、」
「あの子が連れて来るには
新しいタイプだけどね。年上だし、真面目そうだし、…それに、」
女の言葉に高坂が1度目を瞬かせる。その言葉は本当だろうかと確かめる前に店主は指を折って高坂の見た目を挙げ始めたが、不意に口を閉ざして止めてしまった。
「ね。全く。私は親じゃないっつうの」
「はあ…」
折った指はぱたりと降ろして誤魔化すように笑う。百戦錬磨と思われる店主の笑顔に、止めた言葉もさっきの言葉の真意を問う余地は残されておらず、高坂は小さく呟いてまた薄い水割りを流し込んだ。
バーにはそれ程長居はしなかった。いい加減雨も上がっているだろうと席を立つ。例え雨が降っていても、次に行く場所は決まっているから問題はない。会計を済ませ、じゃあ、と背を向けようとする住吉に向かって店主がふと指を伸ばし、遠慮なく腕を掴んでからカウンター越しに耳打ちのポーズをする。その様子に気付いた高坂が気を利かせてドアの方へと向かう様を見届けてから女は住吉の耳に唇を寄せた。
「住吉アンタ、本当にどうしちゃったのよ」
「何がだよ」
女は老婆心を露にするように軽く眉を寄せた。いかにも親のような表情をして低い声を住吉に吹き込む。
「あの人ノンケでしょ」
「…だから何」
「家庭、ある人でしょ」
「……、」
さすが、と住吉は内心で舌を巻く。伊達に長年カウンターの向こうに立っていたわけではない。この洞察力を侮っていた訳では無いが、欺くつもりもない。すっと視線を逸らす様子を確かめた女がごく浅い溜め息を吐き出した。
「不倫なんて良い事ないんだからね。適当に遊ぶつもりなら止めておきなさいよ」
「…わかってるよ。…店長」
声を潜めたやり取りは高坂には届いていないだろう。行儀よく待っている高坂にもう一度視線を投げた店主が、やはり困ったように眉を垂れて笑って見せた。
「刺されないようにね。住吉」
「…ん、」
ぱん、と腕を叩かれた。いてえ、とぼやく住吉はやや早足で高坂へと歩み寄る。
「ありがとうございました」
1度振り返った高坂がぺこりと会釈する姿を、店主は眉根を下げたままの笑顔で見送った。
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