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第16話

昼休みに入ると同時に、住吉は自分の姿を避けるように外に出てしまった。追い掛け損ねた高坂は部下に誘われて昼食を取りつつ、行儀が悪いと思いながらも住吉にLINEのメッセージを送る。あまりに真剣な顔をしているものだから、部下には奥さんと喧嘩ですかとからかわれたが、喧嘩であればまだわかりやすいと思っている。 「ーーーで、…なんすか」 ロッカールームに来てください。最後に打ったメッセージに既読のマークが付いたのは昼休みももう30分は過ぎようかという時間だった。 返信は無く、それでも確認はしただろうという思いで高坂がロッカールームへ向かうと、住吉は既に彼のロッカーに背を預ける形で佇んでいた。 額には微かに皺が刻まれている。不機嫌さを顕にしてはいるが、その理由は高坂にある。眉を下げて歩み寄り、逡巡した後に口を開く。 「…昨日、ごめん」 「…別に謝ることじゃないでしょ」 今日は金曜日だ。午後の仕事が終われば楽しい筈の週末に入る。今夜は久々にどこかで男を引っ掛けても良い。昨夜から無性に苛立っている理由は住吉にはわかるようでわからない。静かではあるが、微かに棘の含む声音に高坂が口ごもった。 「でも、…せっかくの木曜日なのに」 「仕方ないでしょ。主任のお子さんが誕生日だって日に俺と遊んでるわけにいかないんだから」 木曜日の夜だけは空けておくことが習慣になったのはいつからだろうか。 勤務が終わると互いに暗黙の了解の元に社外で落ち合い、ホテルに向かう。相変わらずただそれだけの関係だったが、昨日はそれが出来なかった。出来ない、という旨をLINEで受け取った後から住吉の苛立ちは消えない。 ただの遊びなら別に気にも留めないだろう。だがどうにも腹が立つのは、この上司が相手だろうかとぼんやりと思案する。高坂との関係だっていつもの遊びである筈なのにと行き着いてはますます眉を寄せ、冷えた声音を落とす。 「仕方ないっすよね。自分の子供の誕生日に外で男とセックスするわけにいかないんだから。ちゃんと良いパパしましたか?」 意識するでもなく、嫌味な口調になった。 困惑し、戸惑い謝意を示す高坂の表情に内心で首を傾ける。この男だって、ほんの火遊びのつもりではないのだろうか。良い上司で、良い夫で、良い父親であるこの男だって裏の顔くらいあるだろう。それをさらけ出すのが自分の前だけで、その裏の顔を暴いたのが自分だということ。ただそれだけの話だ。たとえルーティンが1度欠けたところで互いになんの支障もない。 自分に言い聞かせるように考えては、また胸中が苛立ちでざわつく感覚を覚える。薄暗いロッカールームの中で今にも頭を垂れそうになる高坂の姿に、また訳もなく腹が立つ。ごく小さな舌打ちをして、住吉はロッカーから背を外した。 「…ねえ。…本当に悪いと思ってるなら、咥えてくださいよ」 「ーーーえ…」 苛立ちの理由は週に一度の欲の発散の機会が失われた所為だ。 唐突に、半ば無理矢理に理由を付けてから住吉は高坂を見上げる。驚きに瞠目した眼差しがどこか少年のようで住吉の内心に愉悦が走る。この真面目な男の身体を暴き、組み敷き、啼かせることだけが愉しい。それだけの事だ。 「いつもみたいに。俺の咥えてくださいよ。教えましたよね?溜まってるんですよね。昨日出来なかったから」 「…っ、」 この苛立ちも、溜まった欲求の原因も、突き詰めれば全てこの人が良さそうな上司の所為だ。 責任を負ってもらわなければ割に合わない。高坂の手首を取り、掌を自分の下肢へと導いてみせる。呼気を詰める音が文字通り手に取るように伝わってきた。 「…無理なら良いんですけどね。どうせ今晩適当に男引っ掛けるつもりですし」 「ーーー、…出来る、」 まるで子供のような物言いだった。 最後のひと押しに弾かれるように、絞り出すように落ちたその声に虚をつかれたのは住吉の方で、躊躇いがちに床に膝を付ける高坂の姿を半分呆然と見下ろすも、不意に廊下から聞こえる足音に我に返り、慌てて1歩後退した。 「住吉くん?」 「…冗談ですよ。…全部、冗談」 高坂が自分のどの言葉に反応したのかは図りかねている。だからこそ、住吉の中に戸惑いが生まれている。従順過ぎる目に見上げられ、再び軽く眉を寄せた。 1日ヤレなかっただけでこんなに苛つくのは、自分じゃない。 寝た相手に執着など覚えたことは無い。 人のものを欲しいと思ったこともない。 こんな感情は知らない。 これはーーーなんだ。 「冗談…」 「昼休み、終わりますよ」 未だ屈みこんだままの高坂の両頬を掌で捉える。この頬は昨夜子供に触れられたのかもしれない。そう過ぎってはにわかに爪を立てたくなる。 衝動を抑え、身を屈め、代わりに唇を寄せる。高坂のそれを柔らかく啄み、一度呼吸を経て深く唇を重ねる。住吉にそうされることで無意識に開かれる唇の間に舌を捩じ込み、上顎から頬の裏をなぞり、舌を絡め、音を立てて啜る。住吉の二の腕に高坂の手が伸び、緩い力で掴まれるとようやく胸のざわつきが収まるような心地を感じた。 「これで許します」 「……、」 「…来週は、しましょうね」 唇の端を伝う唾液の筋を舐め取り、抑揚なく告げる。放心したような相貌で頷く高坂に目を細めて立ち上がった。 ロッカールームの出入口のドアを押しながら、自分の唇を拳で拭う。 約束なんて、したことは無い。 高坂以外ともしたことは無い。 これはなんだ。 何かを欲しがるなんて、自分じゃないだろうーーー。 背後から高坂の足音が聞こえて来るのを待って歩き出す。ロッカールームのドアが静かに閉じた。 ※※※※※※ 昼寝の邪魔をする声に眉を寄せたのはほんの一瞬だった。 聞こえてくる声の主に鼓動は跳ね上がり、聴覚が一気に研ぎ澄まされた。 同期の住吉の声だということはすぐにわかった。何しろ入社して以来、気が付けばその姿を目で追い、声を拾っているのだ。会話の相手は誰だと更に耳をそばだて、人物を判定してはその内容に驚いた。 「…へえ…」 高坂主任。 あの生真面目で人の良さそうな上司は、住吉と不倫している。 あの男は、住吉に触れる事が出来るのか。 それはーーー。 「…羨ましいな」 あの男に触れられることが羨ましい。 「教えて」貰う事が羨ましい。 ようやく取っ掛かりを見付けた。 ロッカールームの隅で息を潜めていた男は、すっかり冴えた頭で整理しては呟き、ひっそりと目を細めた。

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