26 / 80

第26話

いい加減義理チョコという文化を止めにしないか、という風潮はあるものの、2月14日はそれでもどこか騒々しく、浮き足立っている。 普段以上に賑やかに思える社員食堂、喧騒から逃れるように出来るだけ隅に陣取った住吉は無意識に視線を流してその一点を見付けた。日替わり定食をかきこみながら遠目に眺める高坂の元には入れ替わり立ち代り女性社員がやって来ては小さな紙袋を置いていく。既婚男性にチョコレートを贈って何が楽しいのだろう、と思う住吉の唇はやはり本人の気付かぬうちに小さく尖る。 「あ!いたいた。何こんなに隅っこで食べてるのさ」 碗の底に残った味噌汁を啜る側から少しハスキーな声がかかった。器から顔を離しもせずに視線だけを寄越すと、住吉のいるテーブルの横に立った女性社員が眉を寄せて腰に手を当てていた。 「…なに、」 「別に」 同期の女性社員ーーー那月は短い問いに一瞬迷ったような間を置いてから素っ気なく答える。なんの用だろうと首を傾げつつ茶碗の残りを集める住吉の目はまた高坂へと向かう。チョコレートの袋を受け取りつつ、愛想の良い笑みを投げかけている姿は先程から変わらない。 顔が良くて面倒見も良くて仕事が出来て、とくればそれは人気も出るだろう。バレンタインなどはそのバロメーターだ。どうせチョコレートを上げた所で家で待つ妻子の口に入るだけだろうに、とぼんやりと思う。 「何ぼんやりしてんのよ」 「…嫁さんいる男にチョコあげて楽しいのかなと思って」 ぼそりと呟く住吉に那月が片眉を上げる。住吉の目線の先を辿り、見付けた光景にああ、と小さく漏らしてから勝気な瞳に更に意地の悪い色を乗せて笑った。ボブより少し短めかカットされた毛先が揺れる。 「楽しいんじゃない?今年も主任モテてるよねえ」 「…ふうん、」 住吉自体はバレンタインに興味は無い。入社して以降ぽつぽつ義理チョコは貰っているし、中には本命だと思われるチョコレートを貰ったこともあるが、どれも日頃の感謝の気持ち程度に受け取っている。自分は女性と付き合う気が無いから仕方がない。2月14日は普段よりどこか甘い匂いの漂う日。いつしかそんな風に思うようになっていた。 だが今年は妙に面白くない。その理由は最早明確ではあるものの、認める事も蓋をしてただ睨みを効かせている。その上司は既に人のものだぞ、と無言で送る視線は自分にそのまま返ってくるようで、ますます不機嫌さを増していく。 「わかった。僻んでるんでしょ。住吉」 「…なわけないだろ、」 眉間の皺を深くする住吉の様子をしばし眺めた那月がふぅん、と鼻を鳴らして揶揄する。この同期とは長い間時間を共にしているだけあって、多少の揶揄は気にならない。悪友のような存在からの楽しげな声音への苛立ちは無く、住吉は軽く眉を垂れて苦笑した。妬いている、と自覚しては、馬鹿馬鹿しいと内心で呟く。この所、高坂に関する思いはそんな事の繰り返しだった。 「仕方ないからさ、ほら」 大袈裟な溜息混じらせ、住吉のランチのプレートの前にとん、と小さな紙袋が置かれた。横書きの英文字を読むより先に同期の女がまた腰に手を当てる。口元が柔らかい笑みに変わっていた。 「あげるよ。どうせ今年も1個も貰ってないんでしょ」 「…お返しが面倒だろ」 「いらないよ」 じゃあね、と那月は背を向けて足早に去ってしまった。 昨年あいつから何か貰っただろうかと頭の中で考えてみるも、ふと目に入った壁の時計の時刻を見て住吉は慌てて立ち上がった。 ※※※※※ 「…ずいぶんモテますね。相変わらず」 喫煙所から出てくる高坂を毎日待っているわけではない。 ただ部署に戻る時間が重なっただけ。通りがかっただけだと内心で思いつつ、住吉は今日もタバコの匂いを纏った高坂を清浄な空気に迎える。上司の手には何も無い。1度ロッカーに戻ったのだろう。 相変わらず愛想の欠片も無い部下の声音に高坂が苦く笑い、ごく小さく頭を振った。 「そんなことないよ。申し訳ないよね。お金使わせちゃって」 こういう所なのだな、と住吉は1人納得する。 そのお返しだってバカにならないだろうと想像を巡らせると、女性社員達の為にお返しを選んだり贈ったりする高坂の笑顔が浮かんで妙に腹立たしくなる。やはり今年のバレンタインは不愉快だ。 ふん、と鼻を鳴らした住吉を不思議そうに見下ろす高坂がふと目を瞬かせる。社食からロッカーに戻らなかった住吉の手には紙袋がぶら下がっていた。 「…住吉くんだって…モテると思うけど」 「…は?…あ、これすか」 高坂の零した呟きに怪訝そうに眉を顰めた住吉が、上司の視線の先を辿って自分の手元を見遣る。思い出したように紙袋をぷらぷらと振り、素っ気なく返した。 「義理ですよ。義理。同期からの。…妬きました?」 「…義理、」 高坂の視線が袋の英字をなぞる。白地に黒文字の細い線で記されたブランド名はあれは確か高級な物だと以前妻が小さな嫉妬混じりに言っていたことを思い出す。高級チョコの価値のわかる男なんてそうそういないのにそれでも高いチョコレート渡してくるようは子には気を付けてよね。義理チョコは義理チョコの、本命には本命にかけるに相応しい値段があるだろうーーー。 「…ちょっとだけ、…妬いた、かも」 「ーー…、」 男でも女でも、この若者は何も妻子のある自分にちょっかい出さなくても良いだろうに。そう思うと自然と高坂の胸が萎んでいく。それを隠すように軽く眉を寄せた高坂を見上げた住吉の目が少し驚いていた。 「…義理なのに?」 「…住吉くんさ、…そういうとこあるよね」 高坂の声音が僅かに寂しげに沈んだ理由は、住吉にはわからなかった。

ともだちにシェアしよう!