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第27話
今日、木曜日ですね。
あたかも今思い出したかのように呟いた言葉だったが、当然忘れていたわけではない。それは高坂もまた同じだったようで、微かに躊躇するような沈黙の後に、浅く顎を引いた。唇を引き結んだ様子はどこか覚悟を決めるようなものに写ったが、目元には困惑や悲しげな色は含まれてはいなかった。
横断歩道を渡ると、その道を一本隔てて薄暗いホテル街へと入る。いかにも帰宅途中の会社員といった風情の2人だったが、高坂は今日は片手に大きめの紙袋をぶら下げていた。その中身が女性社員から貰った大量のチョコレートであることは住吉はもちろん知っている。知っているからこそ、自分の胸に優越感が胸に湧き上がっている事を夕方近くから感じていた。既に人のものになっている高坂へ贈るチョコレートは日頃の感謝の気持ちだ。例え誰かがこの人当たりの良い、見目の良い上司に恋心を抱いていたとしても、恋慕をその大勢のチョコレートに混ぜ込むことによって決して越えてはいけない線が引かれている。
だが自分は違う。女性社員への嫉妬など無い。チョコレートがあってもなくても、とっくに線は飛び越えている。それこそ、この横断歩道を渡るか渡らないかの違いだろう。
寒そうに肩を竦め、信号が変わるのを待つ横顔を見上げる。鼻の頭が赤くなっていた。空いた片手はコートのポケットの中で、決して人目のある場所で触れ合うことはない。
「あ、変わった」
夜の中、信号の色が緑色に変わる。小さく呟いて歩み出した高坂の肩が、不意に低く下がった。紙袋ががさりと鳴る。
「…っと、」
「危ない、」
革靴の底が濡れた道路を踏み、滑った。体勢を崩した高坂に咄嗟に手を差し出すと、反射的にポケットから抜いた指が住吉の手を掴み、握り締めた。
危うく転倒しかけた高坂が驚き丸くした目で住吉を見遣る。大丈夫ですか、と声を掛けるよりも先に気恥ずかしげに、今の失敗を隠すように眉を下げて笑う。
「危なかった…。ありがとうね、住吉くん」
「…いえ、」
握った手が冷たい。
住吉の手は高坂の手をポケットに返すことなく握り締めたまま、ゆっくりと歩き出す。半歩後を着く形になった高坂がまた少し驚いたように目を瞬かせるも、何故か手を退くことはしない。道路を渡り切ったところで、住吉の手が改めて握り返された。
「ーーー、」
相変わらず後ろを歩く高坂は軽く目を伏せている。驚き、戸惑ったのは住吉の方で、その動揺を隠すように街灯の少ない通りを早足で歩きながら感触を確かめるようにほんの微かに指先に力をこめた。
人に見られてしまわないだろうかという意識はどこかにある。それでも、握った指の離しがたさに歩調が徐々に遅くなる。ホテルを吟味する振りをして、住吉はやがて高坂と肩を並べた。
こっそり横顔を覗き見る。穏やかな目元が微かに紅潮し、確かに笑みが差していた。
「…なんで、…ちょっと嬉しそうなんですか…」
聞こえぬように呟く。
嬉しげに見えるのは気の所為かもしれない。
足を踏み出す度に紙袋が音を立てる。
それらを伴いながら、この男と手を繋いで道を渡ったのは自分だ。
優越感は未だに消えない。高坂の指と住吉の指の体温が同じになる頃、2足の革靴は密やかにホテルのエントランスを潜り抜けた。
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