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第28話

夕方会社を出た頃にはまだ明るかった空がのんびりと夕食を取っている間に暗くなっていた。焼き鳥屋を出て、ホテルへと続く路地裏に差し掛かる道、道路際に桜が1本ぽつんと立っていた。 「あ。住吉くん。ほら。桜」 「…あー…」 猥雑な通りにはずいぶん相応しくない見事な枝振りのその木はどうやら見頃を迎えているらしく、雑多な色のネオンも届かないような場所で街灯の薄暗い光だけを受けて白色の花を咲かせていた。 高坂はどこか嬉しげに住吉のスーツの袖を引く。目線は桜の木を見上げたままで、その色と光を浴びるように目を細めた。 「今年初めて見たかも」 「俺も」 促され、空を仰ぐように顔を上げた住吉がぽつりと呟く。少し強い春風に揺らされる花弁に高坂もまた小さく呟いた。 風に耐えきれなかった花弁がひとひら降ってくる。その白色が住吉の頭にふわりと着地した。 「綺麗だね」 落ちる花びらを目で追った高坂が柔らかく笑う。春の陽光の様だと称していたのは文学部だったという同期だったか。明るくは無い通りで浮かべる笑顔にすら見蕩れそうになっては、また平静を装って桜を見上げる住吉の頭に不意に高坂の指が伸びた。短い髪に乗る花弁を摘み、ほら、とまた笑みを深める。小さな花びらの向こうに、高坂はふと住吉の横顔を覗いた。 「ーー…、」 花弁に触れた指が、住吉の肩に触れる。 瞳に映る桜色を覗き込むように住吉の唇に唇を重ねた。 「ーー…え、」 今起きたことはなんだったのか。 瞠目する目を困ったような眼差しで見詰めた視線がそのまま逸れていく。辺りに人気は無いが、いつ人が通ってもおかしくはない。 自らの行動に困惑したような眼差しを伏せる高坂を見上げ、住吉は胸の早鐘を自覚する。 春の日は穏やかで柔らかな印象があるが、実は風が強くて移り気だ。 移ろう色を、空気を取り逃してしまわぬように住吉の手が高坂の手を捉える。どちらからともなく五指を絡めて握り合った。ゆっくりと歩みを再開する。 「…どうしたんすか。急に、」 「……したく、なったから」 住吉くんと、キス。 表通りの喧騒にかき消されてしまいそうな声で高坂は呟く。その表情には未だに浮かぶ困惑と、微かな照れた色が滲み上がっている。 「……これからするでしょ。たくさん」 「そうなんだけど、ね、」 互いの間に漂う空気の歪さは、今まで感じたことがないものだった。 2人で桜を見上げ、キスをして、ただ手を繋いで夜道を往く。 その事はこれから2人が行うことよりもずっと必要であるもののように感じては、住吉は歩調を緩める。今隣にいる男もまた同じことを思っているかを確かめるように指先に力を込めた。

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