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第39話
外が土砂降りの雨の所為なのかずいぶん食堂が混んでいる。住吉が普段陣取る隅の島まで人で埋まっているようで、定食の乗ったトレイを持ったままうろうろと彷徨い空いている席を探した。茶碗に盛られた白米が乾いてしまうと眉を寄せようとした頃、ようやく一席空いた場所が見付かった。狭いテーブルと椅子の間を歩み、失礼しますと声を掛けるよりも先についトレイをテーブルに置いてしまう。箸を持つ手を見下ろし、目を瞬かせた。
「向かい、失礼…ーー」
「…どうぞ」
きつねうどんと思しき昼食が入っているらしい丼から顔を上げた社員は住吉の姿を捉えると柔和な笑みを浮かべたまま硬直した。住吉は住吉で、固まる社員の姿にしまった、と動作を止める。
「…主任、」
この所、部署の中でしか顔を合わせていない高坂主任とまともに会ってしまった。気まずさはある。だがここで席を変えてしまえば今後更に距離が広がるだろう。それは円滑な労働環境を整える為にも避けたい。そもそも他に空いている席も無い。先に目を逸らした住吉が引いた丸椅子に腰を降ろした。
「どうも」
「…うん、」
小さく会釈してから箸を取る。高坂は我に返ったように箸を持ち直すも、どこか落ち着かない様子で視線をさ迷わせている。無理もないだろうと思うものの、住吉は素知らぬふりをするしかない。ーー社内の人間と関係を持ち、その関係が切れた時に後を引く諸々が面倒くさい。自分が社内の人間には手を出さないと決めていた理由を今思い出した。谷地の顔が頭を過ぎる。あの男とは付き合っている間は秘密裏にこそこそと関わっていたが、別れた後は互いにさっぱりと後を引くことはなかった。その点では楽な男だったと思う。
静かに音を立ててうどんを啜り始めた高坂が時折ちらりと住吉を見遣る。何か話の糸口を探している気配が伝わって来たが、住吉は気付かない振りを決め込んで白飯をかき込む。
「……なんか…久しぶり、だね」
「……はい」
高坂がやっと口を開いた。少しぎこちない笑みを覗かせて住吉を見ている。僅かに高鳴る心臓を感じつつも、住吉は浅く頷いた。切れてしまいそうな会話の尻を掬った高坂が軽く首を傾けた。
「……最近、どう?」
「ーー…」
ごく自然な振りを装いながらも、やはりぎこちなさが乗る声音に住吉が目を瞬かせた後に小さく噴き出した。あまりにシンプルで漠然とした、そして唐突な問いかけに無性に可笑しさが込み上げる。高坂の精一杯の自然な振りなのだろうか。住吉の様子にきょとりと目を剥く高坂の様子にますます笑いが収まらなくなる。
この人はどこか抜けているところがあったな。
まるで遠い過去を振り返るように思っては喉を鳴らして笑いを堪えた。箸を手にしたままで住吉はくしゃ、と子供のように笑う。
「なんですか…それ」
「…なんかおかしかったかな…?」
楽しげな住吉の笑顔に釣られたように高坂が照れ臭そうに笑う。目を伏せて呟いてから眉を下げ、再び住吉に視線を合わせた。
「だってさ、…こうして住吉くんと向かい合って食事するのが久しぶりだし…仕事以外の話とか…しなかったなって」
「…まあ…そうです、けど」
木曜日の夜は退勤した後に連れ立って夕食を取りに出掛けた。ホテルにしけこむ前のその時間に他愛のない話をぽつぽつと交わしていたから、その時間が無くなってしまうということは業務上の会話以外のものが無くなるということと同じだった。今日は何を食べるだとか、嫌いな食べ物や好物、昨日見たテレビやネットニュースの話題、そんな会話を重ねるうちに互いに互いの身体以外のことを知った。ーーあの穏やかな時間が好きだったと気が付くまでに、そう時間はかかっていない。
今のこの時間は、あの時間に少し似ている。歪さはあるものの、あの時間に戻ったようだと思っては、戻る場所はそこではないと思い直す。
戻る場所は、関係を持つ以前の二人だ。
そこにはこんな風に徐々に、時間をかけてでも戻っていくのだろうか。そしていつかは、二人の関係も、時間も、交わした言葉も、思いの全ても、何も無かったことになるのだろうか。
軋む胸に、気付かない振りをした。
「…別に…普通ですよ。普通、」
「普通…」
それならーー木曜日の夜、何してる?
互いに喉元まで出かかっている問いを飲み込んでいる。無論二人が互いの思いに気付く由は無い。それでも、どこか探るような空気は微かに漂い始めていた。
「普通に働いたり休みの日はだらだらしたり飲みに行ったり…」
「そっか、」
語尾を濁したのは、その合間に谷地の顔がチラついたからだ。実際には谷地とはまだ一度しか寝ていないが、住吉の胸中には隙間風のように罪悪感が吹いてくる。罪悪感など持つ必要はないはずなのにと内心で舌打ちするも、どこか安堵したように目元で笑う高坂の姿にやはり小さく胸が軋む。
「主任は…」
「あ、住吉じゃん」
主任はどうしてるんですか。話題の矛先を向けてしまおうと口を開いたその時、背後から声を掛けられた。振り返るとトレイを手にした谷地が嬉しげに立っていた。その姿に、住吉の隣に座っていた女性社員が折良く食事を終えて腰を上げる。どうぞ、と勧められた席に愛想良く礼を告げた谷地が淀みのない動きで席に着いた。
ーー邪魔が入ったーー。
思わず眉を寄せる住吉の横顔を横目で見つめながら谷地がフォークを手に取る。トレイの上にはナポリタンが乗っていた。いただきます、と一度小さく頭を下げ、上げた顔をそのまま高坂へと向けた。
「高坂さん、ですよね。広報の」
「…あ、うん。そうです」
谷地のツリ目がすっと細くなる。どこか値踏みするような眼差しで高坂の姿を眺めるも、すぐにその色を消してフォークでパスタを巻きながら饒舌な口を開いた。
「俺、住吉の同期で谷地って言います。よろしくお願いします。営業っす。高坂さんの噂はよく聞いてるんですよ。広報のエースなんですよね。イケメンだし。かっこいいな」
「…いや…そんなこと…」
相変わらずよく喋ると住吉は内心で呆れている。快活な声で紡がれる賛辞に擽ったげに笑う高坂をさりげなく見遣りつつ住吉も食事を続けている。
「住吉とは同じ窯食った仲っていうか…飲んだくれて雑魚寝した仲みたいな感じなんすよ」
余計なこと言うなよ。住吉が牽制して横目で睨む効果はあるのかないのか谷地の饒舌は止まらない。雑魚寝ならセーフかとますます眉根を寄せた住吉が口の中の物を飲み込んだ。
「おい。余計なこと喋んなよ」
「なんだよまだ喋ってないじゃん。ていうか住吉その唐揚げ一個ちょうだい?」
「やるからちょっと静かにしてろよ」
悪びれない谷地の視線が住吉の定食に落ちる。溜息混じりに唐揚げを一つ摘み上げると、嫌がらせのように食べ始めのナポリタンの頂上に載せた。
「うわちょっと!ケチャップ味付くじゃん!」
「良いだろ別に。美味いかもしれねえし」
目の前でじゃれ合うような住吉と谷地のやり取りを高坂がやや驚いたように見つめている。自分といる時の住吉はこんな口をきかないし、こんな風に子供のような表情は見せない。時折どこか子供のような態度で拗ねたり怒ったりしているようなことはあったと思うが、今になって新たな一面を見ることとは思わなかった。
微かな寂寞に高坂は無意識に目を伏せた。丼の中は空になっているが、時間の経過と共に食堂の空き席は増えているから急いで席を立つ理由は無くなっていた。
「…なんだか…仲が良いんだねえ。二人は」
「…別に…ただの腐れ縁で…」
「そうなんすよ。この間も久々に二人でご飯食べに行ったんです」
このままだと今にこいつは余計なことを口走る。
自分とは以前付き合っていて、今はセフレなんです。
高坂には知られたくない。関係のある無しに関わらず自分のプライベートを社内の人間に知られることは避けている上にーーましてやこの高坂の耳に入れたいとは思わなかった。ひやりとした焦りを覚えては住吉は急いで箸を動かし始めた。とっとと席を立ってしまおう。出来れば主任も一緒に立たせてしまいたい。むしろ主任が席を立ってくれたら良いのにーー。
「…そうなんだ…」
ぽつ、と落とす高坂に思わず目が行った。どこか寂しげな相貌に見入る住吉の視線の気配を感じた高坂がハッとしたように顔を上げ、眉を垂れて笑った。
「じゃあ…俺はそろそろ、」
「…あ、…はい、」
高坂が立ち上がる。その様子に軽く頭を下げた住吉の横で、谷地があたかも何かに気付いたようにさっと腰を上げた。
「あ、高坂さん、汁飛んでますよ」
背の高い高坂にテーブルを挟んで向き合った谷地がハンカチを取り出して高坂の紺色のネクタイに当てる。ありがとう、と眉を下げた高坂をおもむろに上目で見上げると、ごく自然な動作で顔を寄せ、谷地が耳打ちする。
「住吉の背中の黒子の数、昔と変わってなかったですよ」
「ーー…」
高坂の目が大きく見開かれた。会話の内容は聞き取れない住吉が不信げな眼差しを寄越すも、谷地は満足気にまたにこりと笑った。
「お疲れ様です。高坂さん」
「ーー…あ、…ああ、…じゃあ、」
どこか放心したように笑い、二人に背を向ける。その背を目で追うより先に住吉が谷地を肘で小突いた。
「おい。主任に何言ったんだよ」
「別に?うどんの汁取っただけ」
手にしていたハンカチを脇に置いて澄ました横顔を見せて笑う。後で何らかのフォローは必要だろうかと考えつつ住吉は少し急ぎつつ箸を進めていく。上手く行けば喫煙所でかち合うだろうか。
それでも久々に高坂と面と向かって会話を交わした。ここからまた以前のように自然な上司と部下の関係に戻ることが出来るかもしれない。後は、自分が要らない感情を断ち切って忘れるだけだ。戻る場所は定まっている。
たとえ少し歪でも。
たとえ、思いを全て断ち切るには時間が掛かっても。
鼻から息を逃す。隣では谷地が未だに上機嫌さを隠さない様子でパスタを頬張っていた。
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