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第42話

昼間、デスクに座る住吉の横顔をぼんやりと眺めていた最中に、不意にその店の存在が頭に浮かんだ。大きな窓から明るい光が射す眩しいオフィスには、歓楽街の地下にあるバーというものは酷く不釣り合いに思えた。 木曜の夜の遅い帰宅は未だ続いている。妻子もまた、木曜の夜は夫や父がいないことが当たり前になっているらしく、祖父母との夕食がルーティンになっているようだった。 先週よりもやや短めに残業を切り上げた高坂は、以前住吉に連れられた道の記憶を辿りつつ、時間をかけて繁華街の隅にある店の前に行き着いた。地下へと続く狭い階段を降りる。自分の前にも後ろにも、隣にも住吉がいないことが不思議だった。 「——あら、」 地下で待ち構えていた扉を開けると、酒とタバコの匂いが高坂を包み込む。タバコの香りは前にいた客の残り香なのか、他に人はいない。バーカウンターの向こうで退屈そうに頬杖を着いていた店主のミチルが顔を上げ、いらっしゃいの声よりも先に目を丸くした。 「こんばんは。良いですか」 「もちろん。高坂さんでしたっけ。——…、」 控え目な笑みを浮かべてカウンターへと歩み寄る高坂の姿にミチルはにこりと笑う。今日も豊満な胸の谷間を自慢するような形のワインレッドのドレスがよく似合っていた。だが店主は愛想の良い笑顔で高坂を招き入れた後に単語を一つ飲み込む。ドアへと少し視線を向け、後に続くと思われた人物がいないことに瞬かせた目を高坂に掠めてから、今度は眉を下げて笑った。 「…水割りください」 背の高いスツールに腰を下ろしつつ注文を口にする高坂もまた困ったような笑みを滲ませている。この場にいるはずの人間がいないことの違和感を抱いたまま、ミチルが手を動かし始めた。同じ性質の違和感を感じつつ上着のポケットから喫煙具を取り出す高坂に温かなおしぼりが差し出される。 「お一人は珍しいですね。…て言ってもまだ二回目でしたっけ」 「ええ、」 残業を終えたサラリーマンの帰り際の一人飲み。 はたから見ればそうとしか思えない高坂にミチルは小首を傾げて伺いつつ出来上がった水割りを差し出す。相変わらず眉根を下げたままの高坂が小さく会釈してからグラスに唇を寄せた。想像していたよりも少し酒が濃い。 「……住吉はお元気?あれ以来顔出さないけど」 「…ええ、まあ、…元気そう、です」 酒の香りが混ざる息を吐いたタイミングを見計らったように、ミチルがあたかもうっかり零したように口にした名前に高坂の目元が微かに震えた。視線は重ならないまま言葉を濁してみるも、カウンター越しにじっと目線を投じてくるミチルに誤魔化しが効く気はしない。言葉尻に曖昧さを滲ませてはみたが、ミチルは案の定、と言いたげに深く鼻から息を抜いた。 「…本当にあの子は」 「……」 一度腰に手を当てたミチルがまた深い溜め息を吐き出してから自分の分とグラスを手にする。高坂の物よりは幾分か薄い水割りを作り、客へと軽い会釈を挟んでから唇を湿らせるようにほんの少し喉へと流し込んだ。 「あの子本当ねえ…、そこそこ長い付き合いだけど誰かに入れこまれることはあっても誰かに入れ込むような男じゃないからねえ…」 まるで不出来な息子を懸念するような声だった。苦笑したまま何も言わない高坂を見やってはまた漏れ出しそうになる溜め息を酒と共に飲み込む。 「くそ生意気だし愛想は悪いし何考えてるかわかんないんだけど…、…あの子、」 ミチルが高坂の瞳を覗いた。コンタクトを入れいているのか、淡い茶色の瞳が不意に真面目な空気を漂わせる。見透かされてしまうような眼差しに、高坂は思わず目を逸らしてしまう。 「あれでも、適当に付き合ってるような相手は連れて来なかったんだけどね。ここに」 「——…、」 どこか残念がるような声だった。誰にも本気にはならない住吉が本気になる相手が貴方ならば良かった。家庭のある高坂に対してミチルはそれを口にはしない。ただ、寂しそうに伏せた目の下に、カールさせた長い睫毛が影を作る。いよいよ口を閉ざしてしまった高坂は、間を埋めるように傍らの灰皿を指で引き寄せた。 白筒を抜きながら、今のミチルの言葉の意味を考える。 これは遊びなのだと自分に言い聞かせるように口にした住吉。 最後の夜も、確かめるように、ラベルに名前を書くように同じことを口にした。 だったらどうして住吉は、自分をこの店に連れて来たんだろう。 酒が周り始めた頭がぼんやりと熱くなる。一服したら出よう、とフィルターを咥え、ライターを手にしたその時、小さく音を立ててドアが開いた。ミチルが手にしていた水割りのグラスを置く。 「いらっしゃい、——、」 「……、…主任?」 地上の寒気と共に現れた男の姿に高坂が目を見張る。 こつん、と音を立ててフロアに一歩踏み出した切り、住吉は呆然と佇んでいる。その姿を見つめる高坂もまた、瞠目したまま完全に動きを止めていた。ただの思い付きで訪れたというのに酷い偶然だ。 今日は木曜日だったな、ということをたった今頭の片隅で思い出した。こうして社外で顔を合わせるのはいつのこと以来だろうか。高坂の胸がにわかに波立つ。 ーーこの期に及んで、住吉の後ろに連れがいないことに安堵している自分に、呆れた。 「…何…してるんですか」 背後でドアの閉まる音を聞きながら住吉がようやく口を開く。店主のミチルには一瞥くれただけで、また高坂へと目を戻す。他に客はいないことに内心で安堵しつつも、軽く眉間に皺を寄せた。 「ここ、どういう店かわかってるんですか。主任。ただの飲み屋じゃないんですよ」 「……」 住吉の声が少し掠れている。不意に、口角が歪な形に持ち上がった。 「……もしかして、わかってて来ました?…男、引っ掛けに」 「…っ、」 立ち尽くしたままだった住吉が高坂へと歩み寄る。思いもよらない問いかけに虚をつかれた高坂の視線が逸れた隙を見逃すまいとするかに住吉がまた皮肉げな眼差しを向けた。 「今日木曜ですもんね。ここに来たら、男引っ掛けられると思ったんでしょ」 「…ちが、」 ーーここに来たのなら、住吉に会えるだろうか。 どこかできっと思っていた。社内ではなく、別の場所で住吉と会って、対峙して、唐突な終わりの理由を聞いても良かった。聞かないままに、また何事も無かったかのように関係を再開させられるような気がしていた。 だがそれは全て自分の夢想だったのだ。この男はどうしてこんな風に酷いことばかりを言うのだろう。自分を傷付けようとばかりするのだろう。 まるで、もう二度と戻ることが出来ないように。 もう二度と、会いたいなどと思わない。 高坂にとっては遠い感情のそこへと、導くように。 席からも立てずにいる高坂を追い詰めるように住吉が距離を縮める。何かを考えるような間が空いた後に、軽く唇を噛む仕草をしたような気がした。 「…寂しいんでしょ。俺が、……男無しじゃ、ダメな身体になってるんですよね。主任」 「違う…!」 発した声は閑散としたフロアに強く反響した。自分の大声など久しく聞いていない。住吉同様に驚いた高坂は、それでも数回目を瞬かせた後に小さく頭を振った。唇を噛む。住吉がわからない。ーーそうであるのなら。 「ーーそうだよ、」 「……」 泣き出してしまいたい。 こんなことを言いたかったわけじゃない。 会ったら。顔を合わせたのなら、言いたいことも言うべきことも、尋ねることも山ほどあったはずなのに。あと数歩の距離が遠過ぎる。未練がましさだけが占める胸中を振り切るようにまた軽く頭を振り、顔を上げた。 近かったはずの住吉がわからない。 そうであるのなら、自分の胸中も晒すことなく、煙に巻いてしまおうかと、思った。 「…そうだよ。…住吉くんはもう、次を見付けたみたいだから」 「ーー何…」 頭の中には、住吉の同僚だという男の勝ち誇った眼差しがある。覚えた嫉妬心と敗北感は恋心に直結する。気付いた時にはもう遅かったということか。自嘲に、高坂の頬が歪んだ。 「俺に飽きたんだろ。奥さんも子供もいる男と遊ぶのに飽きたんだろ、」 「…違、」 住吉の瞳が揺れた。さっきまでの勝気を装ったような色が消える。ーー泣き出したいのは住吉も同様なのだろうか。一瞬過ぎった予感を払い去る。無意識に、唇を噛んだ。 「…なんだよ。住吉くんが勝手に始めて…、勝手に終わらせたくせに。もう俺に興味ないんだろ。…勝手に火付けて、…勝手に消すなよ、」 一度零れた言葉は止まらない。 こんな風に言い合いをしてしまったのなら、どんな関係であれ、修復出来ない。誰かにこんな口をきいたことなんかない。自分は恐らく、真剣に喧嘩なんかしたことが無い。 本当に愛しいと思った人に、こんな事を言ったことはない。 愛しいと思った相手に、恋をした相手に、こんな事を言わなければならないなんて。 空調や機械の音が室内に満ちた。三人の呼吸の音が混ざり合い、やがてそこに住吉が立てる靴音が響いた。身を後退させ、一度伏せた顔を上げる。青年は、やはり今にも泣き出しそうな目をしてもなお、嘲笑うように口元を持ち上げた。 「ーーああ、…俺が主任のこと、そんな風にしたんでしたっけ」 「……」 遠い昔のことだ。自分にとってはよくある話だ。あれは一時の戯れだ。軽い口調が突き付ける。 「ーー淫乱、」 「…っ、住吉くんこそ…、…ヤリチ」 「ーー外でやんな!!」 応酬のみが行き交っていた店内に、明らかに男の声とわかるミチルの怒声が響き渡った。

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