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第43話

三人しかいない店内に響き渡ったミチルの声はよく反響した。グラスさえもヒビを入れるのではないかと思う程の怒声に高坂と住吉は同時に口を閉ざす。恐る恐るミチルを見遣ると、腰に手を当てたマスターもといバーのママは盛大に眉間に皺を寄せてこれみよがしに大きな溜め息を吐き出した。 「うちは痴話喧嘩する場所でもないし別れ話する場所でもないんだからね。二人とも外でやんな。帰れ」 住吉が口にした通り、この店の役割は概ねハッテン場だ。百歩譲ってヨリを戻す程度は許す。だが不毛な喧嘩は煩いだけだ。カウンターの向こうからミチルの手が高坂の水割りのグラスを取り上げ中へと引っ込めてしまった。叱られてすっかり眉を垂れた高坂が慌てて財布を取り出す。間に割って入られたことで冷静になり、騒々しくしたことを詫びつつ札を抜こうとする姿にミチルがますます眉を寄せた。 「いらないよ水割りの一杯くらい!いいからそこのガキ連れて帰んな!」 「けど、」 そんな訳にはいかないと千円札をカウンターに滑らせながら高坂は席を立つ。その姿を確かめるような間を置き、住吉が店の中に背を向けた。ミチルを怒らせた決まりの悪さに鼻から息を抜きつつも、背中は高坂を待っている。 「住吉」 急ぎ足の高坂が住吉に追い付くと、ミチルが未だに不機嫌さを隠さない声で呼び止めた。振り返った住吉の情けない相貌に、ふん、と鼻を鳴らした。 「ばーか」 「……、」 知ってる。拗ねた眼差しでミチルを見遣った住吉が、ほんの一瞬泣きそうな目をする。その様に、ミチルがまた深い溜め息を吐き出した。 店を出た住吉はどこへとも決めずに黙々と歩き始める。その背を追う高坂も、何も言わずに歩いている。店を出た所で、気まずいままで別れても構わない、などとは思えなかった。売り言葉に買い言葉で返した言葉はおおよそ本心であるわけがない。珍しく頭に血が登り、それでも住吉の言うことを肯定など出来ず、かといって否定も出来ずに出鱈目を言った。 訂正しなければいけない。その一心だけが追わせる住吉の背は、いつかの木曜日の夜のことを喚起させた。 「……なんか、」 住吉が足を止める。繁華街の片隅、大通りから一本奥まった路地裏で高坂を振り返り、呆れたように呟いては目を伏せた。 「…冷めちゃいましたね」 文字通り冷や水をぶっかけられた。自嘲気味に呟いては、高坂と目も合わせずに路地の向こうに視線を投げる。 「俺、帰ります。…男引っ掛けるなら、あっちの方にそういう公園がありますから」 「ーー…、」 路地の突き当たりには汚れた街灯が肩を寄せるようにして立っている様子が見えた。住吉は嗤うでもなく、何処か諦念したような目でその街灯を眺めているように見えた。 「主任なら、捕まえられますよ。…オトコ。…タチ悪そうな奴には気を付け…、」 「ーー本当に、…そう思ってるの?」 再び、頭に血が逆流するような感覚を覚えた。手を伸ばし、住吉の二の腕を掴む。驚いた眼差しがようやく高坂を捉えた。見た事の無いような瞳は住吉の年相応の若さが滲んでいるように見える。 本当に自分が、住吉以外の男と寝ることを求めていると思っているのだろうか。 始めたのは他でもない住吉だというのに。 自分の身体は、ーー心は、今も住吉にしか向いていないというのに。 忘れられることなど、出来ないのに。 ーー住吉だけが、綺麗に忘れてしまうのか。 高坂の少し高い目線が住吉の目を覗く。スーツの上から腕を握り締め、不安定な態勢のまま顔を寄せた。動きかけた住吉の唇を、高坂の唇が雑に塞いだ。 「…っ、」 いよいよ瞠目する視線の気配を感じながら、伸ばした舌で住吉の上唇をなぞる。下唇に甘く歯を立てては開かせ、舌を捩じ込んだ。咥内で逃れようとする舌を捉えて吸い、唾液を存分に絡ませる。音を立てて唇を幾度も啄み、触れ合わせ、力が抜けていこうとする住吉の腰を抱く。最後に一度、住吉の唇が高坂の唇を軽く吸った。互いの相貌の間に引く糸が、薄い街灯の下で微かに光った。 「…何…、」 動揺を露にした住吉が高坂を見上げる。身体に触れる両腕は離れていかない。ーー高坂もまた、自分の衝動に驚いている。乱れた息のまま住吉を見据える眼差しが、既に欲に濡れていることにすら気が付いていない。 「火は、着いた…?」 さっき口にした言葉を思い出す。 火を着けたのは、始めたのは住吉だ。 それを忘れて、無かったことにして、自分一人で放り出されるなんて。 今も、火は燻るどころか消える気配が無いのに。 遊びでも、ほんの一滴でも本気が混ざっていたとしても。 どちらにしても、関係を結んだことは確かだ。それなのに。 勝手に、終わらせようなんて。 「住吉くん、…もう一回、火は着いた?」 「…何…考えてるんですか、」 主任、と動く唇の形すらもどかしい。何かを埋めるようにまた住吉の唇を淡く奪う。 火が、いつまで経っても消えないのは。 「…すみ、…智洋のことだよ」 「ーー、」 穏やかな、耳障りの良い声が住吉の鼓膜に染み込む。遠くで鳴るクラクションの音が煩い。二の腕を掴んでいた指を解き、代わりに動かない住吉の手を捕え、握りしめた。 「ずっと、智洋のことだけ、考えてるよ。俺は」 「…っ、」 指が、握り返された。高坂に背を向け、手を引く形で住吉が猛然と歩き始める。角を曲がった所はラブホテル街だ。 知りませんよ。住吉の呟く切羽詰まった声音が、深夜の風に乗って辛うじて高坂へと届いてきた。 駆け込んだホテルの一室、照明も付けぬままに高坂の身体を壁へと押し付けた。誘ったのはそっちだと言い訳のように口にすることも忘れて唇を奪うと間近で瞼が落ちる気配がする。数回唇を食み、開いた上下から舌を捻じ入れると、高坂の掌が住吉の腰に触れた。 口付けの間、自分の名を呼ぶ声が幾度も降ってくる。受ける鼓膜が、指に力を込めて抱かれる腰が堪らなく熱く目眩すら起こしそうな錯覚を覚えた。急く手で高坂のスーツの前立てを割り、下着の布を越えて直に雄へと触れる。既に甘く屹立したそこを掌で包み込むと、高坂の手もまた、どこか浮かされるような手付きで住吉の下肢を探っていた。ベルトを緩めた高坂の衣服が音を立ててカーペットの上に落ちる頃、熱い指が住吉の欲を探り当てる。やはり微かに膨張を始めた感触を捉えた高坂の目尻が安堵するように小さく下がった。 「…っ、…ね、…後ろ、」 絶え間なく交わすキスの隙間から漏れる声が掠れている。音を立てて唇を吸ってから薄く瞼を開くと、欲の滲む瞳をした高坂と目が合った。 「後ろ、…して欲しい…っ、」 「っ、」 もどかしさと早急さが混ざり合い、濡れた声が低く鼓膜を叩く。煽られるばかりの掌を双丘へと伸ばし、窄まりを探る。締まったそこを指の腹で撫でては無遠慮に細く割り開くと、高坂の喉が軽く反った。 「ぁ、…っ、」 まるで恥じ入るように喘ぎを噛み殺す様子とは裏腹に、高坂の掌は住吉の熱から離れない。次第に質量を増す雄を丁寧に扱いては。また導くような口付けを落とす。 堕ちていく。 堕としたのはーー堕としかけたのは、自分だったはずなのに。この人を堕とすまいと手を退いたのは自分だったはずなのに。どうして自分は今こうして触れ合い、強く手を引かれているのか。 軽い目眩を覚える。振り切るように高坂の後孔に指を押し込む。震える膝頭を感じては、自ら壁に背を預ける高坂の喉仏に唇を寄せた。体内に埋め込んだ指に絡む熱が、掌が触れたままの腰が、身体の全てが熱い。伝えるように胸板を密着させると、高坂の指が完全に勃ち上がった住吉の雄を下から上へと撫で上げた。 堪らず高坂から指を抜き、片足の膝裏に手を添える。息を詰めた高坂が住吉から手を引いて身を添わせるも、住吉が不意に小さく瞬きした。 堕ちていく。 このまま交わったのなら、高坂も、自分も戻れない場所へと堕ちていく。 予感が、躊躇させた。軽く唇を噛み、俯きかけた住吉の姿を高坂の不思議そうな、もどかしげな眼差しが見つめている。僅かに間を置いた後、高坂の手がそっと住吉の頬に触れた。 「…智洋」 「……、」 「ーー誘ったのは、俺だよ」 自分のよく知る、穏やかな声だった。何かを言おうとした唇を覆うように口付けが降る。伸ばされた手を掴むような心地で住吉が高坂の双丘を硬い亀頭で割る。呼吸を吐き出す間も与えず、そのまま深く身体を貫いた。 「……っ…!ぁ、…ッ…」 「きっつ…、」 痺れるような感覚に襲われた高坂がびくびくと身体を震わせる。久方ぶりに男を受け入れる体内の狭さに眉を寄せつつ、住吉は意識の端で安堵している己に気が付く。男を探していたなど、あれは嘘だったのではないだろうか。他の男を探していたのなら。自分以外の男と寝ようとしていたのなら。そんなこと、信じたくもない。 ぐ、と腰を掲げるように突き上げる度に高坂の身体が揺さぶられる。零れ落ちる喘ぎは最早堪えることを忘れ、とめどなく住吉の上へと降ってくる。その声を更に求めるような動作で住吉は高坂の全身を貪ろうとする。 これは嫉妬だ。 嫉妬させ、怒らせ、煽り、また関係を繋ごうとするなんて。 ーーこれはまるで、恋人のような関係だろうーー。 喉を晒す首筋に唇を寄せ、吸い付き、歯を立てる。シャツの中に隠れる首の付け根に噛み付くと、高坂の身体が一層きつく住吉を締め付けた。 「っ、」 「ぁ、ッア…!」 高坂の奥で住吉の熱が弾ける。ほとんど同時に、住吉の背に立てた高坂の指に力がこもった。腹の間に精を飛ばしつつ、強請るように高坂が住吉の唇に首筋を押し当てる。うっすらと開いた双眸の色を確かめようとする前に、高坂が甘く乞うように首を傾けた。 「…もっと、…足りない。智洋、」 「……俺も、」 足りないです。 呟く住吉の脳裏では警鐘が鳴り始める。一度楔を抜き、ベッドへと手を引く最中に気が付いた。 自分たちはもう、とっくに戻れない場所に来ていたのかもしれない。 頭上から聞こえていた寝息が途切れた。視線を上げると、高坂がうたた寝に目を瞬かせながら住吉の髪を指で撫でている。大切そうな手付きで自分の体を抱え込んだままの高坂の頬に恐る恐る指で触れた。 「…主任、…帰らなくて…良いんですか」 こうして寄り添い合いながら眠ることは始めてだろう。行為が終われば高坂はいつも一人部屋を出て、自分は独り眠りにつく。それが当たり前のことだった。頬骨を辿るように滑る指に、高坂が一瞬間を空けた。 「…良い、」 高坂の脳裏には何があったのだろう。想像してみようとするも、温もりと疲労と胸に広がる心地に掻き消される。 「智洋」 柔らかく呼ぶ名前が染みる。住吉の髪に触れたまま、高坂はまた眠りに落ちてしまった。 堕ちていくという感覚は、こんな風に幸福を伴うものなのだろうか。 ぼんやりと考える住吉もまた次第に眠気に支配されていく。更けゆく夜の中、二人の寝息が初めて重なり合った。

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