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第44話

朝靄が煙る、明け方のラブホテルから呼吸も身も潜めるように出た後、閑散とした歓楽街をゆっくりと抜けた。1度帰宅する時間は十分にあると気が付いてしまいったことを内心で後悔しつつ、その一方で高坂はふと頭の隅にあったリビングのカレンダーを思い出す。クレヨンの赤色を使った弾むような筆跡の丸が、今週の末の数字を囲んでいた。あれは上の子の筆跡だろう。 「…日曜日、」 今にも肩が触れ合いそうな距離を保ったまま高坂がぽつりと口を開く。住吉が顔を上げると、少し引き締まったような目元が伺えた。 「日曜日、ね、…俺、1人なんだ。夕方くらいまで」 何かを決意するような眼差しが地面に落ちている。だが、頬は照れたようにほんの微かに紅潮していた。 今週の日曜日、妻は学生時代の友人との同期会で出掛けると言っていた。それに合わせ、子供たちは祖父母と動物園に行く約束をしたという。祖父母は孫を独占したいらしく、妻にもパパはゆっくりしていて、と言われたものの、日曜日にゆっくり1人で過ごすことなどもう数年は遠ざかっている気がした。持て余すことは目に見えている、というのは今はただの言い訳だと思った。 「だから」 互いに鞄を下げたままの指の背が微かに触れ合った。数時間前まで眠りを共にしていた体温が酷く遠い気がしてーーすぐに恋しくなった。 「…だから、…日曜日の智洋に、…会いたいなって」 住吉の目が小さく瞠目する。日曜日の貴方に会いたい。古い歌の歌詞が過ぎる。それは自分の台詞だ。住吉が、1つ言葉を飲み込んだ。 「……俺も、…日曜、暇ですけど。…夕方くらいまで、」 高坂よりも照れた眼差しが逸れたままで呟く。重ならない視線に、それでも高坂の頬が柔らかく綻んだ。 ※※※ 「それで、昨日は何か食べたの?」 夕食のダイニングの席は今日も賑やかだ。長女が甘えて開ける大きな口に、高坂は子供用のスプーンでオムライスを運んでやる。昨日は終電を逃したから会社に泊まった。眠ってしまい、連絡出来なくてごめんね。1度帰ります。住吉と別れた後に送ったメッセージを受け取った妻は夫の朝帰りを待ってはいなかった。そもそも朝帰り自体が初めてではない。若い頃は働き盛りということもあり、会社に泊まり込むこともそう珍しくは無かった。 差し向かいの席で妻の目が案ずるように高坂を見つめている。小さく跳ねる鼓動を隠し、軽く笑って見せた。 「あ、うん。デスクの前でおにぎりとか」 コンビニで買ってきた。無意識に視線が逸れる。ふうん、と呟いた妻が、それならいいけど、と重ねながら隣に座る子供の口元に付いたケチャップを拭っている。 ーー秘密は、何処まで秘密として所持することが出来るのだろう。 朝方触れた住吉の指の背の感触を思い出す。それを引き金にするように、高坂の脳裏には一晩の出来事が過ぎっては燻るような熱だけを残して消えていく。 触れる手が。自分の中に入り込み、思考ごと掻き回すように行き来する熱が。切羽詰まったように呼ぶ声が。 遊びだと嘯くには、あまりに真摯で必死な瞳が。 その全てを永久に欲しいと思ってしまう感情が、今あるこの時間や空間への愛しさを凌駕した時に、きっと秘密は秘密として維持することが出来なくなる。 そして今ですら、こうして思い悩むことは遠回りで、自分の中では結論は出ているという予感がすぐそこまで迫っているような気配を感じている。 「パパぁ?」 幼い声で我に返る。知らず伏せていた自分の眼差しに驚いたような、やや怯えたような目をした子供が、真っ直ぐに目を覗き込んでいた。 「ごめんね。はいどうぞ?」 油断すると頭の中を締めようとする雑念を払うように笑う。その姿に安堵し、また口を開ける子に黄色い玉子を食べさせた。ほんの僅かに砂糖が入っているのか、甘い玉子焼きに幸せそうに微笑む幼子の姿に胸が痛む。 自分にはまだ、胸を痛める良心も理性もある。 内心を見つめ、安堵する一方で、数日後の日曜日に思いを馳せては浮き立ってしまいそうな気配を感じる。 全てを放り出し、闇雲に駆け出してしまうことが出来るような立ち位置や性分ではないことに安堵し、焦れた。絵に書いたような家庭のテーブルに座った高坂は、燻る胸中を抑え込むようにグラスの冷たい水を飲み干した。

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