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第47話

爽やかを絵に描いたような、という姿はこれを表現するのだろうか。ベージュの綿のパンツに濃い紺色のジャケットを合わせ、中にはストライプ柄のシャツを着ているように見える。足元の、通勤時とはやや異なった幾分かカジュアルに見える革靴は、住吉が歩み寄る遠目からでもよく磨かれている様子が伝わってきた。 駅の待ち合わせスポットである、赤い幾何学的な形をした大きな像の前、高坂はどこか所在なく立っている。同じような人待ち顔の群れの中、片手にスマホを握って佇む上司へと距離を詰める住吉に、微かな緊張が走った。初めてのデートは緊張すると相場は決まっているが、そんな緊張は学生時代で終えたと思っていたというのに。これではまるで高校生だ。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、知らず早足になる住吉の姿を、高坂の視線が捉えた。ほんの僅かに、目元に安堵が滲んでいる。高坂が予言したように晴れた空、明るい太陽の光が射し込む駅の構内で待ち合わせ相手を見付けた目は、間違いなく自分に向けられている。住吉の歩調がまた少し早くなった。 「……やあ、」 「……待ちましたか、」  互いの距離がようやくゼロになった。向き合い、どこかぎこちなく言葉を交わし合う。待ってないよ、と緩く首を振って見せた高坂が、住吉の濃いグレーのジャケットの襟元から覗く臙脂色のパーカーのフードに軽く目を細めた。 「…どこ、行きます?」 「結局考えてなかったね」 ふふ、と楽しげに息を逃しながら高坂はまだ住吉の見慣れぬ私服の新鮮さに頬を緩めている。ふと、フードの辺りで光る物に目を留めた。 「そうだ。住…、智洋と行きたいと思ってたところがあるから。そこ行こうか」 深夜でも、ベッドの上でもないまだ正午前の明るい駅の中。ただ口にされるだけの自分の名前にすら腰が砕けそうになる。動揺を悟られぬようにと目を逸らし、浅く頷く住吉を招くように体の角度を変えた高坂は、駅ビル内のエスカレーターがある方へと嬉しげな足取りでゆっくりと歩き出した。 ※※※ 休日らしい雑踏に紛れてエスカレーターに乗り込んだ。半歩程先を行く高坂は慣れた様子で5階のフロアでエスカレーターから降り、人の波に乗って歩く。ショッピングビルの5階は靴屋や帽子屋、キャラクターショップ、それと雑貨屋のテナントが雑多に入った階で、それに合わせて客層も多岐にわたっていた。友人同士なのか兄弟なのか、男二人連れもそう珍しくはない。あまり馴染みの無いビルの中、さりげなく視線を配る住吉の前で高坂が足を止めた。 「ここ、」 控え目な手付きで指さしたのはこざっぱりとした印象の雑貨屋だった。足を踏み入れると、中にも洒落た風貌の店員がちらほらと立っている。シンプルな雑貨や食器を取り揃えるハイセンスな店に高坂は通い慣れているのだろうかと内心で驚きつつ視線を巡らせると、なるほど店の隅には海外から輸入したらしいスタイリッシュな子供用の玩具もある。高坂の——高坂の家庭の一端を覗き見たような複雑な心境になりつつある住吉を高坂が手招きしている。穏やかな目元に惹かれるように歩みを寄せると、高坂は手元にあるショーケースを覗き込んだ。 「これ。…智洋にあげたの、ここで買ったんだよね」 木枠で囲まれた小ぶりなサイズのショーケースの中には、やはり飾り気の少ないシンプルなシルバーアクセサリーが並んでいる。ユニセックスなデザインの物が多いらしく、幅広いサイズの指輪や、バングル、そして数種類のピアスがきちんと整列するような間を開けて陳列されていた。 ふと高坂の指が住吉の耳朶を示す。パーカーのフードの傍には、以前高坂が住吉にプレゼントとして送ったピアスが埋められている。指先が示す赤を身に着けてきたことに深い意図は無い筈だった。だが、そこに気付いた高坂に対して嫌でも鼓動が跳ねようとする。何事も無いような振りをして、ショーケースを見下ろした。確かに、高坂に貰った物と同じ形のピアスがある。石は住吉が持つ赤ではなく深い青色だった。 「欲しいの、とか、…あったら、」 「——え、」 軽く前に屈み、住吉と肩を並べる高坂がぽつりと呟く。横顔が、照れている気配が伝わってきた。 「智洋が好きそうだから、…一緒に見たいなと思ってたんだけど、…良かったら、俺から」 誕生日でもクリスマスでもないのにプレゼントを貰う理由は無い。だが高坂はそれが年上の——男の甲斐性だと思っているのかもしれない。男の甲斐性を立てる理由もあまり見当たらないが、欲しい、と思ってしまったのは、今日の日を確かなものにしたいと思ってしまったからかもしれない。初デートの記念、等という可愛らしい発想は自分の中には無かった。 ちらりと値札を見る。予想はしていたが、やはりそう値の張るものではない。目線を彷徨わせる住吉の横顔に高坂の柔らかい眼差しが注ぐ。やがて、住吉の指が先程の高坂より控えめにガラスの上に乗せられた。 「じゃあ…、これ、」 選んだのは、石や飾りの無いシンプルな球体のピアスだった。小振りではあるが、やや曇りがかった加工のシルバーが鈍く光っている。全体的にマット加工が施されているが、よく見ると球体の三分の一程が鋭利な何かで綺麗に切ったように平面になり、そこだけが鏡のように磨かれていた。これが一番好きだ。高坂の目が住吉の指の先を追う。射止められたそれを覗き、頬を崩した。 「うん。似合うと思うよ。智洋に」 ※※※ ピアスのみが入った小さな小箱を手に提げて店を出た。ビルの中を行く人混みは相変わらずで、次はどこに行こうかと問うより先にどちらからともなく小さな溜め息が漏れる。 「ちょっと座ろうか」 早いかな、と問う目が住吉に向けられる。どこか緊張していたのか、軽く肩が張っているような気配すら感じながら、住吉が浅く頷くと、高坂はやはり慣れた様子でエスカレーターに乗り込む。 食堂フロアのある上階へと昇る機械の上、背を眺めながら住吉はずっと次の、茶を飲みながら交わす為の会話を探していた。 高坂が訪れたコーヒーショップには四、五組程の列が出来ていた。迷うことなく最後尾に並ぶと、住吉はそっと横顔を見上げる。コーヒーショップくらいは外回りや出張の際に二人で入ったことがある。それなのに、高坂はどこかふわふわと浮かれたように目元を緩ませている。 《楽しいですか。》 頭に浮かんだ問いが不意に住吉を面映ゆくさせた。 喫煙スペースに空席は無かった。その上通路に近い席はどこか落ち着かない。仕方なしに選んだ二人用の席に、住吉はブラック、高阪はミルクだけを入れたコーヒーを前にようやく腰を降ろすことが出来た。 ガラス張りの店の外を行く人波を、高坂の肩を経て目で追う振りをしながら未だに会話を探っている。気を抜くと、高坂の形の良い唇がマグカップの縁に触れる様にすら見惚れそうになる。ジャケットを脱いだ姿でカップを下ろす高坂の袖口から、よく知った匂いがふわりと香ってきた。 「…タバコ、」 「ん?」 ちらりと喫煙席に目をやる。まだ空席は出来ていない。文字通りに思い出したように口にしては、高坂から視線を逸らす。指し向かいでコーヒーを啜ることなど珍しくもなんともない筈なのに、普段とは違うシチュエーションにただひたすら揺さぶられ続けている気がする。 「タバコ、吸わなくて大丈夫ですか」 「ああ…。どうしても吸いたいとかじゃないから。平気だよ。ありがとう」 柔らかい声が鼓膜を打つ。返答の代わりに浅く頷いては、まだ熱いカップを唇へと触れさせた。周囲のざわめきすら邪魔に思える。 今発せられた声の傍に。カップの代わりに、自分の唇が触れれば良いのに。にわかに邪さが顔を覗かせる。小さく音を立てて、カップを置いた。人混みは、疲れてしまう。ここでは、一ミリもこの男に触れられない。——せっかく、二人きりで会っているというのに。 「……良かったら、」 カップの中の黒い液体に視線が落ちてしまう。こんなのはまるで、学生の恋だ。自分ではないような感覚が、自分のものでは無いような緊張と言動を引き起こす。不思議そうな眼差しを感じつつ、雑踏の中に消え入ってしまいそうな声で続けた。 「…俺の家で、…吸いませんか。……タバコ、」 ざわめきの中、沈黙が落ちた。 断られた時——まだ歩こうと言われた時のことなど考えていなかった。高坂が住吉の家に訪れるのは初めてではないはずだ。それでも、柄にもない臆病風が背を冷やす。上げられずにいる視線を、内心を奮い立たせる間を置いてからそっと持ち上げると、高坂が驚いたように軽く目を見開いていた。 「あ、…いや、…まだ、行きたい所とかあったら」 「——うん、」 明らかに動揺する住吉に、高坂が二回ほど目を瞬かせてから擽ったそうに笑った。テーブルの上に置かれた指が微かに動いたかと思うと、住吉の方へと伸びかけるも今の場を思い出したように軽く握り込まれる。はにかんで笑う高坂が、先程の住吉より深く顎を引いた。 「行きたい所、…俺もね、智洋の家に行きたいなって思ってたよ」 早く二人きりになりたい。高坂の言葉の裏を勝手に深読みした住吉の心が急速に浮き上がる。まだ半分以上残っているコーヒーを飲み干す時間も、惜しいと思いながら再びカップを持ち上げる。 不意に、店の外に行き来する人混みの中にどこかで見たような顔が横切った気がした。自分よりやや年上だろうか。ショートヘアーの、華やかに化粧を施した女性の横顔を無意識に目で追う。その様子に気付いた高坂が、再び問うような目で住吉を見やる。 「どうしたの?」 「あ、…いえ、」 なんでもない、とカップを傾けた。どこで見た顔だったか、酔っている時の記憶だろうかと心当たりを呼ぼうとする住吉の視線の隅、女性はぱっと顔を輝かせたかと思うと軽く歩調を早めていく。揺れるスカートの裾は、待ち合わせ相手と思しき若い男の元へ蝶のように駆けていった。

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