48 / 81
第48話
自宅まではひと駅だから、と伝えた住吉に高坂は徒歩を提案した。駅の外に出ると、緩やかに吹く風が二人の額や頬を撫でていく。休日の雑踏をのんびりと抜け、やがて足は住宅街へと差し掛かる。どこかの公園から子供たちが遊ぶ声が聞こえるものの、日曜の昼下がりの住宅街は先程までいた街の騒々しさとは程遠い。
ジーンズのポケットに指を突っ込んだ住吉の腕と、ジャケットの脇に下ろした高坂の腕が時折触れ合う。夜の歓楽街であれば平気で繋いでしまえる指も、今は何故か触れようと誘うこともはばかられた。陽の光の下、心地良さそうに風を受ける高坂の横顔を軽く見上げては、幾分か早く打つ鼓動を感じている。こうして何もせず、ただ太陽の下を並んで歩くこともまた、デートなのだと気付いた頃に、足は住吉の自宅のアパートの前で止まった。
「…何も、無いんですけど」
外階段を登りながらポケットから鍵を取り出し、今更言い訳するように呟く。うん、と頷く高坂は半歩下がって住吉の後を着いてきた。三階の角部屋のドアに鍵を刺し、ドアを開ける。必要の無い物は置きたくない、というよりも必要の無い物を置く理由が見い出せない住吉の部屋にはこのような事態に備えて片付けておく程の物も無い。お邪魔します、と声を掛けた高坂は、短い廊下から続いた単身者用らしいワンルームの室内を見渡す高何が嬉しいのか目元を緩めたまま住吉を見遣った。
「綺麗にしてるねえ」
「……何も無いだけです。…そこ、」
褒められた住吉は照れて目を伏せる。自分は廊下の真ん中を陣取る小さなキッチンに立ったまま、人差し指でソファーを示した。二人がけのソファーは合皮だがこれも綺麗に使用されている。促されるまま腰を下ろした高坂が、家主の帰りを待っていた灰皿に目を留めた。側には百円ライターと、自分が愛煙する銘柄と同じ煙草の箱が封を切った状態で置かれている。
「智洋、タバコ吸ったっけ」
キッチンへと顔を向けた高坂が少し声を張って伺うも返事は無い。首を伸ばして見ると、住吉が真剣な目をして食器棚を漁っている。浅く息を抜いて笑った。
「どうぞお構いなく。今コーヒー飲んできたし」
「……なんか、買ってくれば良かったですね」
カップはあったが、飲み物はインスタントコーヒーくらいしか無い。いつ封を開けたのか記憶が曖昧な粉末のコーヒーは、さっき店でそれなりに美味いコーヒーを飲んで来た後に飲むには味も素っ気もないだろう。眉を下げてリビングへとやって来た住吉の姿に笑みを深め、高坂はソファーの空いたスペースを軽い動作で叩く。休日の昼間の自分の部屋に、高坂がいる。見るつもりもない夢のようだったシチュエーションが唐突に現実として現れたような風景に、住吉はくらりと目眩を起こしそうになる。今日の自分はどうかしている。朝からーーこの逢瀬が決まった時からずっと、思春期の少年のような心地で右往左往している気がする。こんな自分は、知らなかった。
「…どうぞ。タバコ、」
「ああ…、うん。ね、智洋、タバコ吸ったんだったかなって、」
この部屋に訪れた目的を思い出し、遠慮せずにと勧める住吉に、純粋に尋ねる視線が向けられる。虚をつかれた形になる住吉は、軽く瞠目してから迷うような間を置いて口を噤んでしまった。その気配を察知した高坂が少し視線を上向かせてからジャケットを脱ぐ。中のシャツのポケットに隠すように持っていた煙草の箱を取り出し、戯れにテーブルの上に載せた。
「同じの、吸ってるんだね」
「……」
青い箱が二つ並ぶ。そのどこか不思議な景色に何かを見抜かれたような心地に陥っては、住吉は鼻から息を抜いた。観念したように眉を寄せ、口を開く。
「……最近、」
長い間止めていた筈のタバコを手にしたきっかけを思い出す。少し前まで、こうしてこの男と肩を並べて街を歩いたり、自分の部屋で座って話す未来などは想像もしていなかった。留まらせる為に、断ち切る為に酷いことを言った筈なのに。幸せのある場所に引き返して貰おうと決めた筈だったのに。たった一夜を経て、この男はこうしてまた自分の隣にいる。
すぐ近くで、こんなに幸せそうな目をして。
「最近、…口寂しかった、から、」
落とした声に高坂の瞳が瞬いた。重ならない視線の先は住吉の握った拳の上にある。その丸めた指先を解そうと、高坂の指がそっと住吉の手の甲に触れた。
「今は…?」
「……っ、」
囁きが部屋に染み込んだ。そんな風に伺うのは、そんな風に触れるのは狡い。小さく呼気を詰めた住吉に、高坂がそっと伺う。控えめな、きちんと距離を取って人と接することの出来る筈のこの男の眼差しが自分を見つめている。
ちょうど今握った拳のように頑なに閉ざす一端を開いてしまいたい。欲しい一言を引き出してしまいたい。そんな貪欲さが、欲が滲んでいるのを、この男はきっと自覚していない。
指を解き、探るように高坂の手を取る。全ての指を絡め、掌を重ね合わせた。そこに視線を落とし、住吉の指の動きを見下ろしていた高坂の唇に唇を寄せた。
「…狡いんですよ。主任は」
「そうかな、」
意外そうな目をする高坂の瞼に唇を寄せる。じゃれ付くように高坂の腕が住吉の二の腕を捉え、どちらからともなくまた唇同士を重ねた。
「…今日は…こういう事しないでおこうと思ったのに、」
ぼそ、と呟く住吉が眉間に皺を刻む。驚いた高坂の目が、誘うように細くなる。ーーいつから、こんな目をするようになったのだろう。
「どうして?」
また、唇が重なる。
ただ二人で、休日を過ごそうと思っていたから。
高坂の休日を一日自分のものに出来る。
ただそれだけで良かった筈だから。
理由を紡ごうとする唇が淡く啄まれ、吸われる。足りない、と語る目が住吉の目を覗き込む。身を寄せた分、ソファーが小さく軋んだ。
「俺は、今日智洋としたいと思ってたよ?」
「だから…、」
そういう所がアンタの狡い所だ。
その手管を教えこんだのは自分の他ないというのに。
観念した住吉の手が高坂のシャツのボタンに伸びる。窓から射し込む明るさの中、高坂が導くように軽く喉を反らした。
※※※
なけなしの理性でベッドへと招いたのは正解だった。ソファーの上は狭過ぎる。自分の上に乗り上げ、硬く天を向いた熱を受け入れた高坂の喉を甘く吸っては熱に浮かされるような頭の中でぼんやりと思う。スプリングを利用して軽く突き上げただけで高坂の腰が震え、住吉の身体にきつく両腕が巻き付く。堪えるような吐息がひっきりなしに外耳に触れ、その度に住吉もまた腰から背に滾るものを感じる。汗ばんだこめかみから指を差し込んで髪を梳き、横顔を覗くように唇を食んだ。
「声、」
「…っ、」
目を覗く。吐息を噛んでいる様を見抜かれた高坂が、辛そうに眉根を寄せた。今日はまだ明確な喘ぎを聞いていない。懸命に歯を立てる下唇が痛々しく見え、住吉が淡くそこを吸うと、すぐに応じるような口付けが返ってきた。
「声、我慢してません?」
「…んっ、…隣に、…聞こえたら、」
高坂の視線が何も無い壁へと向けられる。角部屋だから片側は何も無いが、その反対の隣室との壁は厚くは無い。ーーだが。
「…平気ですよ」
ぐ、と腰を押し当てた。立てた高坂の膝頭がびくりと揺れ、住吉の背に浅く爪が立つ。綺麗に切りそろえられている爪が憎い。これでは、自分に痕は刻まれないだろう。
「隣、留守ですから」
多分、と小さく付け加える。一瞬安堵に緩んだ目元が、足された一言にまた薄らと羞恥に歪む。この表情を見ることが出来るのは自分だけだ。同時に、高坂の唇から発せられる喘ぎを聞くことが出来るのも自分だけだろう。ーー確かに、人には聞かせたくはない。
「なら、…俺の肩、噛んでください」
「…ッ…、ぁ、」
従順な、というよりも行き場を無くした唇が住吉の肩に触れる。促すように二度、三度と身体を揺さぶると、耐え切れなくなった高坂の前歯が肌に立った。同時に、背にもまた浅く痕が埋め込まれる。甘い痛みは身体を伝って下肢へと連動するようで、住吉も淡い吐息を逃した。
「主任、…っ、やべ、」
「ァ、っ、んんっ、」
掠れる声で口にした呼称に、高坂の体内が雄を締め付ける。不意を突かれた住吉が一度身体を大きく震わせた。肉壁の中で脈打つ熱から迸る体液が高坂の奥を叩く。思わず顔を上げた高坂の驚いたような瞳がゆるゆると住吉を見下ろした。
「…なんか、…」
普段より速い、と口にしかけてはそれは言ってはならない言葉だと咄嗟に気付いて口を噤む。だが、続く言葉を悟った住吉がたちまち目元に朱を走らせた。誤魔化すようにして高坂の胸板に唇を寄せて強く吸い上げる。
「や…っあ、そこ、」
「主任の、せいです」
普段と違う場所と時間での交わりも、普段と違う自分になるのも、引き返そうとしたことを諦めたことも。
始めたことも。
溺れたことも。
堕ちていく、ことも。
全部。
「全部、主任のせいですから」
全ての責任を転嫁してしまいたい。
全て自分が始めたことで、自分が引きずり込んだことだという事はわかっている。それでも、こうしている事の幸せを悪としなければ、これまで背に張り付いていた背徳感も僅かな罪悪感も忘れてしまいそうだと思った。
この男がこうしている事は一時のことで、今も尚、この男は人の物なのだということすら、忘れてしまいそうだと思ったのだーー。
高坂の目が小さな驚きを露わにする。住吉の言葉の真意を問うように瞳を見つめると、苦い笑みを滲ませて住吉の耳から髪に触れた。硬いピアスに唇を寄せ、首に抱き着く。
「ーーうん、」
静かな声音が囁く。詫びるような声が鼓膜を擽っては胸の奥へと染み込んでいく。
「俺のせいだね」
「っ、」
下肢を繋げたまま送られる抱擁に、気が遠くなりそうだった。
ともだちにシェアしよう!