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第49話

夕暮れの住宅街の狭い道を車が一台横切った。ただそれだけの事で背徳感が蘇る。先程まで、これ以上無いというくらいに触れ合っていた筈なのに、今は指一本も繋いでいない。 シャワーを浴びた高坂からは住吉が愛用しているシャンプーやボディソープの香りはしない。使わない方が良いですよ、と告げた声音は冗談を含んだつもりだったが、高坂はどこか寂しげに頷き、素直に湯だけを浴びて来たらしい。その洗いざらしの横顔を見上げると、昼間同じ道を歩いた時よりも僅かに視線が下がっている。互いに、何も言わずにゆっくりと駅へと向かっていた。 「…ここで、」 改札まで送られると寂しくなる。だが、玄関先で別れることは惜しい。高坂は自宅を出る前にそんな事を口にした。駅まで十分足らずの道を黙々と歩き、今日の日は終わる。出入口に立った高坂が、住吉に向き直って小さく首を傾けた。瞳を覗き、何か言葉を探している。 「それじゃあ、…また明日ね」 「…はい、」 明日は月曜日だ。明日になれば、互いに何事も無かったように日々を過ごし、そしてきっとまたいつもと同じように木曜日を迎える。 終わりの無い道に足を踏み入れている。 高坂は何事も無かったように自宅に戻り、妻子と食卓を囲んで、自分のベッドで眠りに就くのだろう。切れ目のない生活を、住吉の知らない生活を続けていくであろう高坂の気持ちはわからない。 この期に及んで互いに想いを口にしていないことの歪さを胸に携えて、二人はこの先何処へ向かうのだろう。 引き返せす理由を探す事も、最早無意味であるような気がした。 唐突に、とん、と背を叩かれたように暗い場所へと落ちかける感覚がある。半ば立ち尽くしてしまったような住吉の姿に気付いた高坂が、やはり寂しげ眉を垂れて微笑んだ。 「今日、」 「…はい、」 「楽しかったね」 ーーやはり、この男は狡い。 楽しかったか、と問うわけでも、楽しかったと告げる訳でもなく、ごく当たり前のように同意を求める。自分と同じ気持ちであって当然だという思いをごく自然に、柔らかく投げてくる。住吉がそれを躱す理由は無い信じて疑わない笑みと共に。 「ーーはい、」 視線を逸らした。他に人気は無い。そのまま指を伸ばし、パンツの脇にある高坂の人差し指を探っては絡め取り、すぐに離した。 「楽しかったですね。…達、さん、」 高坂の目に、驚きが露になり、拡がった。たちまち目の下が真っ赤に染まり、それを自覚した掌によって覆い隠される。知ってたんだ、と小さく呟いた声もくぐもって隠れてしまった。 「……帰れなくなるだろ」 日が暮れかけた薄暗い地面に声が転がり落ちる。咄嗟にそれを拾い、帰らないでくれ、とは口には出せない。衝動と歯痒さを飲み込んだ住吉は、小さく下唇を噛んだ。 ※※※ 高坂の背を見えなくなるまで見送り、一人今来たばかりの道を引き返す。やはり見送りなど性に合わない。知らなかった筈の寂しさが募るだけだ。 半日を自分と過ごした高坂はどんな顔をして帰宅するのだろう。昼間二人で歩いた駅の中で手土産の一つでも買って帰るのだろうか。考えても仕方の無い想像を膨らませると、今日の日が曇ってしまうような気がして住吉は無意識に唇を尖らせた。あの駅の中に足を踏み入れてた瞬間から、高坂は自分のものではなくなってしまう。 不意に、コーヒーショップのウィンドウから見掛けた女性の姿を思い出す。どうして今、と内心で首を傾げながらも、どこかで見た横顔を脳裏に描く。 「ーーあ…?」 一度だけ訪れたことのある高坂の自宅の玄関先。 酔った高坂を出迎えた女性。苦笑い。あれは、少し年上のーー。 「……え、」 足が止まる。まさか、と振り切ろうとする傍から脳裏に明るい色のスカートの裾が蘇る。自分の願望が補正させた可能性はあるだろうか。そのまさかが真実ならば。 ーー主任は。 あの男は、どんな顔をして家庭に帰るのだろう。再び歩き始める足元が、先程よりも暗くなっていることに気が付く。落ち始めた薄闇が、住吉の頭上に果てしなく広がっていた。

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