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第51話

「新プロジェクト…、ですか」  高坂との週末のデートから二週間程が経った頃だった。間もなく昼休みに入るかという頃、部長に呼び出されて、デスクの前に着く住吉がたった今言い渡された言葉を復唱する。ピンと来ていないといった表情の住吉を見上げた五十絡みの部長は人が良さそうな笑顔で頷いて見せた。 「そう。来春の新製品をちょっと大きめに展開しようって話になってな。製造と営業と広報とで広く連携したチームを立ち上げる。で、うちからは住吉くんを推しておいたから。住吉くんもそろそろこういうちょっと大きめの仕事してみたいだろ」 「——…」  これは抜擢というやつだろうか。住吉は昨今の若者らしく、仕事に対してそれなりのやりがいはあるものの、特にガツガツと成果を求めるタイプではない。ろくに余暇を潰すような趣味も無いくせに、自分の時間は必要で、仕事は生きる為に稼ぐものと割り切っている。それでも、普段あまり関わりのない、それでも部署全体に目を配っている上の人間に推されたと知ると、にわかに高揚感を覚えると同時に微かな緊張感が湧き上がった。初めて一人で任される大仕事だ。その緊張が顔に現れたのか、部長はまた相貌を崩して大きく笑う。 「まあそんな緊張しなくていいから。社運を賭けた大プロジェクトとかでもない。けどな、広報の代表だと思って頑張って来いよ」 「…はい、」  比較的体格の良い部長の手が伸び、細身の住吉の肩をぱんばんと叩く。部長は未だに戸惑い気味に頷く住吉の肩越し、後方に視線を投じ、もう一度部下を見遣った。 「住吉くんの指導は高坂くんだろ」  突如口にされた名前に、今度は別の理由で動揺を誘われた。脳裏には、瞬時に最後に二人きりで過ごした時間が頭を過ぎる。——仕事中、それも部長の前でなんて不埒な。慌てて頷くことで、脳内の光景をかき消した。 「彼が着いていれば問題は無いから。わからない事とか困ったことがあったらきちんと聞いて。高坂くんにもこの件は伝えておくから」 「はい、」  よろしくお願いします。今度は深々と頭を下げた。清潔そうな短髪を前に、部長は嬉しげに目を細めて頷いた。  昼休みももう時期終わりという頃、フロアに戻る道すがら、喫煙所に立ち寄ろうか否かを逡巡した。最近あまり口寂しいとは思わない。二週間前より、そのもっと前に高坂との関係を断ち切ろうと決意し、口に出して一度はそうしたものの、その高坂にある種追い詰められる形で言わばヨリを戻した後からは空虚や寂しさは嘘のように消え失せた。  自分の現金さや単純さに内心で苦笑する。自分も高坂も、互いに決定的な一言を口にしていないだけで意思の形は定まっている。ただ、それでもなお方向は定まらない。身体と、胸の奥深くにある結び付きだけを携えて自分達はこれから何処に行くのか。何処に行こうとしているのか。  そんな事を考え込んでしまうとその場に立ち尽くしてしまいそうな思いすら他所に置いておきたくなる程に、自分は柄にもなく浮ついている。自覚はあるものの、その上大事なプロジェクトを任されたとなれば少しくらい浮かれることも仕方がないだろう——。  青臭い言い訳を自分に言い聞かせ、舌先で上唇を湿らせる。今は煙草はいらない。通りがかったガラス張りの喫煙所の前を過ぎようとしたその時だった。  ガラスの向こう、手招きする人物がいる。ひょいと視線を向けると、一人喫煙所に立つ高坂がちょうど良かったとばかりの笑みを浮かべていた。  ——本音を言えば、あまり社内では高坂とは接したくはない。  頑なに引いていたラインを越えてしまった今、ほんの少しでも距離を詰めてしまうと理性が弾けてしまいそうな気がしている。自分を律し、コントロールしなければ。ただの不倫の関係であった頃よりも強固に意思を保とうと意識している。そうでなければ——あの男が自分を許していると知ってしまったからには、自分はきっといつだってあの男に触れてしまいたくなるに違いない——。  それでも、住吉が招く高坂の手に逆らえる理由は無い。引き戸を開け、僅かに視線を逸らしてお疲れ様ですと会釈する住吉の態度を気に留めるもなく頬を緩めた。 「聞いたよ住吉くん。おめでとう!抜擢だね」 「……、…はい、」  昼休み前に渡された部長の話が瞬時に思い起こされた。部長はすぐに高坂にも話を通したらしい。おめでとう、と耳慣れない言葉に思わず照れを覚えてしまった住吉が、曖昧に顎を引いた。 「良かったねえ。すごいことなんだよ。俺も嬉しい」  文字通り、言葉の通りに自分の事のように住吉の任を喜ぶ高坂があまりに無邪気で、住吉はようやく眉を垂れて笑った。指に挟んでいた高坂の煙草は既に短くなっていて、それを灰皿に落としながら高坂はにこにこと住吉の顔を眺めている。目を合わさないその様子が不安げに移ったのか、緩く首を傾けた。 「大丈夫だよ。何か困ったことがあったらいつでも言って。俺も助けになるからね。でも住吉くんなら大丈夫だよね。俺が着いてなくてももう——」 「…え、」  俺が着いてなくても。そんな軽い一言は、小さな棘として住吉の奥に引っ掛かる。ぱ、と顔を上げ、ようやく高坂と視線を重ねるも反論の言葉は失われてしまった。人影が喫煙所の側を通る。ここがガラス張りでなければ良かったのに。ついさっきまで己を律していた筈の理性は、この男の一言で呆気なくぐらつく。指を彷徨わせ、壁に向けられている高坂の背に伸ばし、シャツを摘んだ。 「住吉くん?」 「…そんなこと、…ないっす」  そんな寂しいことを言わないでほしい。  自分がいなくても、などと口にしないでほしい。  いて欲しい理由はいくらでもある。だが、いなくても良い理由など、今の自分にはどこにも見当たらない。  自分の側から高坂が居なくなることなど想像したことがない。  それは上司と部下という関係を飛び越えた今も、ただの上司と部下という関係のみだった時も、顔を上げれば高坂がいるという事は住吉の中では当然の事象だった。  公私を割り切っている等とは上辺だけだ。自分はこんなにも、何に於いても高坂が必要なのに。 「主任がいないと、…困る、」  ぽつ、と零した寂しげな声に我に返ったのは住吉で、自分の言葉に瞠目したその後に目元がみるみるうちに朱に染まる。自分は何を言っているのだろう。これでは公私混同も甚だしい。甘えている場合ではない。浮かれている場合でもない。任されたプロジェクトも、高坂との関係も、まだ行く道は幾らでもある。それはもちろん、良い道に転がる保証はどこにも無いのに。  理性を強く持たなければ。少なくとも、高坂に恥じないよう、立っていたい。  青い決意は自分のものとは思えないような形をしている。だが、ふわふわと浮いていたような足元が今少しだけ硬い場所に降りた気がした。シャツを摘む指に力が籠る。この指は離せない。だが、それと仕事とは別のことだ。  内心で頷く住吉をじっと見つめていた高坂が、目元で笑う。ふふ、と小さな息を漏らし、恨めしげな目を上げた。喫煙所の外には、終わる昼休みを過ごす社員たちが気だるげに行き交っている。 「…ここさ、」 「はい?」 「ガラス張りじゃなければ良かったのに」  ——浮ついているのは、果たして自分だけだったろうか。  目を瞬かせる住吉を高坂の穏やかな眼差しが見遣る。同意を求める純粋で、狡い年上の瞳に、せっかく固めた意思がまたほんの微かにぐらついた。

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