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第52話

 壁の時計を見やってから立ち上がる。住吉が手にしたファイルにはほとんど紙は入っていない。どれだけ時代が進んでも、本人の心許ない心境も手伝い、パソコン上のデータの他にアナログのデータは手放すことが出来ない。先日言い渡された新プロジェクトの資料をまとめる為に作ったファイルの鮮やかな水色を目にした高坂が、ひょいと視線を持ち上げた。 「あ。もう時間だね。行ってらっしゃい」 「…行ってきます」  初めての会議は顔合わせ程度だからと聞いている。緊張しているつもりはないが、意識して無愛想を装った。それでも高坂は慣れた様子で住吉ににこりと笑いかける。ただそれだけで漲るやる気に自ら戸惑いつつも、平静の殻を被った住吉がフロアから早足で出ていった。 「住吉くんは張り切ってるねえ」  その様子を眺めていたのか、やや離れていた場所から高坂の上司が声をかける。この男またにこにこと穏やかな男で、二人が言葉を交わす様はどこか陽だまりのような空気が漂っている。 「ええ。一生懸命頑張ってくれると思いますよ」 「高坂くん。寂しいんじゃない?」  部下の成長は嬉しいが、寂しい。自分に頼りきりだった男が、自分に背を向けて颯爽とフロアを出ていく様子を思い出しては高坂はふふ、と呼気を抜いて笑う。手が離れる、というよりも。 「…子離れって…こんな感じなんですかねえ…」  子供にしては大きいよ。笑う上司に、高坂がまた笑みを深めた。  会議室にはまだ誰もいなかった。やはり張り切ってる様が出てしまっただろうかと住吉は気恥しさを覚えつつ適当な席を選んで座る。下っ端は下座だろうとドアの側の席に腰を降ろすと、程なくして同じ下っ端が部屋に入ってきた。 「あ。一番乗りかと思ったのに」 「…よう」  営業の谷地だった。広報からは自分が、営業からは谷地が集められていることは事前に渡された書類の中のメンバーの名前を眺めている時に知った。若い社員に経験を積ませることもこのプロジェクトの目標の一つでもあるのか、下っ端は同期のこの二人が選ばれている。  住吉の姿に谷地は人懐っこそうな笑みを浮かべて遠慮することなく隣の椅子を引く。同じように持参したファイルをテーブルに置くと、住吉を見やった。 「久しぶり」 「…久しぶり」  ——高坂の件でバタバタしているうちに、谷地との約束を忘れていた。  正確には、確たる約束を交わしていたわけではない。セフレの関係があるとはいえ、高坂との関係のように毎週会う約束をしていたわけではない。だが、谷地の気紛れな電子メッセージを無視する形になっていたことは事実だ。例えそれが「今日ヒマ?」という裏を読もうとすればいくらでも読めるような、逆に言えばただの食事の誘いの類であっても無視は良くはない。  谷地の声に嫌味な色はない。だがそれだけに住吉の方に気まずさが募る。ぽつ、と返しては手元のファイルを開いてこの二人きりの時間をやり過ごそうとする住吉の横顔を谷地がまじまじと眺めた。 「…なんか住吉さ、…雰囲気変わった?」 「…どこがだよ」  変わったと言われるような事は起こっていない。人間はそれ程急には変わらない。変えようと意識もしていない。軽く眉根を寄せて谷地を見遣る。視線が重なり、谷地が小首を傾けた。 「なんかやる気あるっていうか。前みたいにそれなりにこなせば良いやみたいな感じじゃないみたいな」 「…日本語おかしいぞ」  煙に巻くつもりはないだろうが、谷地が喋る言葉はいつも淀みがなく、ついでに根拠もない。もそもそと口の中で指摘しつつ再び横顔を向けてしまうと、谷地もまた自分が持ってきたファイルを開き始めた。 「張り切ってんだ?」 「…張り切るだろ。多少は」  自分もお前も独り立ちするのは初めてだろう。そんな意味を込めたつもりだった。それをどうとったのかはわからないが、谷地はふぅん、と鼻を鳴らして機嫌が良さそうにペンケースを開く。取り出したボールペンをくるくると指先で回した。 「昔からさあ、根っこは真面目なんだよなあ。住吉は、」 「初耳だけど、」 「言ったことないし」  谷地の声音はあくまで軽く、住吉の声音は平坦なまま会話は続く。人からそんな風に評された事はない。飄々と生きてきたつもりだが、一度関係を深くした人間から見るとそう見えるのだろうか。——そうであれば、高坂もまた、自分をそんな風に思っているだろうか。  また妙な気恥しさが湧き上がる。顔には出さぬように務め、住吉も同じようにボールペンを手に取ったものの、まだ特に書くことはない。 「俺は住吉のそういうとこが好きなんだけどさ、」  ペンを持つ指が、止まった。  深い意味は無いだろう。事実、谷地の目は笑っている。静止した指を動かすも、握ったペンで書くことはない。咄嗟に選んだ言葉が、口を付いた。 「…好きだった、だろ」 「あ、あと住吉そういうとこあるよ、」  隣でかつての恋人がケラケラと笑う。住吉の反応が予想通りだったとばかりに破顔し、ボールペンを回す手を止めたかと思うと、その先でぴたりと住吉を指した。 「人の気持ち、勝手に決め付けない方が良いよ」 「……なんだよそれ」  憮然とした顔をする住吉に谷地は満足気に目を細める。会議の開始まで5分前を切っている。そろそろ他のメンバーも集まってくる頃だろう。その前に、と大きく伸びあがった谷地が住吉の背を見やった。 「…住吉のその張り切り方さ、アレだね」 「なに、」 「結婚かなんか決まって急にやる気になる奴いるでしょ。アレに似てる」  結婚も何も決まっていない。  出来るものならしてしまいたいと思いかねない相手はまだ人のものだという事実が頭を過ぎる。  これは大事なプロジェクトの会議で、今は仕事中だ。  言い聞かせ、眉間を揉んだ。その様子を観察していた谷地を軽く睨み付ける。  くだらないこと言ってんなよ。口に出すと、感情が乗って見透かされそうな気がして黙り込む。  谷地が入ってきて以来は閉じたままだった会議室のドアが開き、歪な静寂に音を入れた。

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