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第53話

人気の無くなったオフィスの時計は7時を回っている。割り振られたプロジェクトの他に通常の業務も抱えている住吉は、今日の日中はプロジェクトに関わる仕事に手をつけることが出来なかった。残業の申請を出し、取り掛かる前に自販機で購入したカップのコーヒーを傍らに置いているが、それもさほど口を付けないうちに冷めてしまっていた。 真剣な眼差しでパソコンに向き合う住吉を斜め向かいの席からそれとなく眺めていた高坂が立ち上がったことにも住吉は気が付いていない。1度フロアから出て、照明に照らされる自販機のコーナーへと向かった高坂は温かいコーヒーを満たしたカップを手に戻ってきた。 「はい、」 「…あ、…どうも…、ありがとうございます」 こと、と小さく音を立てて並べられたカップから昇る湯気と新しいコーヒーの香りに住吉がようやく顔を上げる。ふう、と大きく息を逃してカップに指を添える住吉を見下ろしつつ、高坂が緩やかに首を傾けた。 「どう?まだかかりそう?」 「あー…そうですね…、もう少し、で終わりそう…」 卓上にカップを据えたまま背だけで伸び上がり、目の疲れを癒す為に眉間を揉む。唇を寄せたカップにあち、と目を細めてからパソコンを睨み、立ったままの高坂を見上げた。 「…あ。ていうか、すみません。主任先に帰って——…」 出来た上司のことだ。残業に勤しむ自分に気を遣って残っていてくれているのだろうと眉を下げつつ口にした後、思い出したように壁掛け時計に目をやった住吉が口を噤んだ。壁掛け時計の下部にはデジタル表示で日付と曜日が記されている。今日は——木曜日だ。 「…っ、すみません、俺、」 曜日などすっかり頭から抜けていた。今日の日中から、夕方以降はこの仕事をどう片付けようかという事で頭がいっぱいだった。住吉の顔から血の気が退く。木曜日は、唯一高坂と過ごす事が出来る夜だというのに。慌てて立ち上がる住吉の姿に、高坂が小さく笑う。 「大丈夫だよ。それじゃあ今日は先に帰るね」 「……、…はい、」 逢瀬が一つ飛んでしまうことは寂しい。だが、仕事に夢中になっている部下の姿を見ることは決して嫌ではない。慰めるように言うも、住吉はしょんぼりと眉を垂れてしまっている。 高坂も仕事も、どちらも大切で離したくはない。けど自分は1人しかいない。どうして選ばなければいけないのだろう。程近い距離にいる高坂の気配に今すぐパソコンの電源を落としてしまおうかとも思うも、高坂はきっとそれを良しとしない。 あからさまに肩を落とす住吉を見る高坂の目は愛おしげな色をしている。どこに触れようか、と軽く宙をさ迷った手が、やがて住吉の短い髪に触れた。 「…大丈夫だよ」 「…はい」 「全部終わったら、ちゃんと埋め合わせしようね。…智洋」 粗相をして耳と尻尾を垂れる犬を宥めるような手付きで髪を撫で、一瞬だけ額に唇を寄せた。人気のない室内でほんの一時だけ空気が止まってはまた流れ出す。顔を上げた住吉がやっと深く頷く様を確かめ、高坂がデスクに残した上着と荷物を引き上げる為に住吉の傍から離れていった。 ※※※※※ 廊下を行く足音がエレベーターホールへと到達し、静かな機械音が鳴った事を確かめてから逆側の廊下から歩み出す。普段いる階とは異なるフロアの廊下を行く谷地の手にはコンビニのビニール袋が下げられていた。1時間前に覗いたオフィスにはやはり住吉が残っている。ひょい、と顔を出すも、余程集中しているのか谷地の姿には気が付いていない。 「やっぱりまだ残ってた」 「…谷地、」 同じプロジェクトに関わっている仲として、住吉の情報は届いている。もう時期山場を迎えるだろうと予想はしていたが今日は木曜日であることにも気が付いていた。終業後、一か八かと様子を見に来た時には住吉は確かに残業の体制に入っていたがその時はまだ高坂がいた。時間を置きがてら行ってきたコンビニの袋の音を鳴らしつつ谷地は住吉の側へと歩み寄る。 「ぼちぼち詰めて作業するんじゃないかなと思ってさ。おにぎりとサンドイッチどっちがいい?」 「…おにぎり…、」 わざわざ買ってきてくれたのだろうかと目を瞬かせる住吉の隣の席の椅子を引いて躊躇なく腰掛ける。傍らにある、まだ湯気の昇っているコーヒーのカップをさりげなく除け、袋からパッケージされた握り飯と緑茶のペットボトルを並べていく。 「そっちこそ…まだ残ってたのか」 「…大事な仕事だから。俺だって真面目にやるよ。住吉だってそうでしょ?」 一区切りがついたのか、住吉がキーボードから手を離して谷地へと目を向けた。回転椅子を動かす事で膝が触れ合いそうな距離で向かい合う。かつて住吉が好んで選んでいたツナマヨの握り飯のパッケージを丁寧に剥がし、手渡す谷地の目が住吉の目を覗いた。短い礼を告げてから受け取る住吉が浅く頷く。 「ん、」 ——付き合っている時から、妙に甲斐甲斐しいところがあった。 谷地との関係だけに関わらず、ドライなのはいつも住吉の方だ。間柄を問わず、住吉は他人に入れ込むような事はしない。高坂だけが特別だ。 その一方で谷地は入れあげるタイプなのだろう。他の相手は知らないが、住吉はとにかく尽くされた。素っ気ない態度を取っていても気にとめないのかそれともめげないのか、谷地は住吉の傍を離れなかった。——それが、重たかったのだと住吉は口にはしていない。 住吉の食事のパッケージを丸めた手でサンドイッチを取り出した谷地がそのまま席に着いたまま包装を解き始めた。そこで食うのかよ、と横目を寄越したものの住吉は気にとめていないらしい。2人分の咀嚼音と、住吉が片手でキーボードを打つ音が静かなフロアに流れている。握り飯を飲み込み、ペットボトルを開封する小さな音と共に住吉が再び背もたれに背を預ける形で伸び上がった。 「…そっちは?進捗」 「順調、かな。俺の方は繁忙期って訳じゃないから、わりとこっちに集中出来てる感じ。住吉は忙しいんでしょ。通常業務と並行で」 一を問うと二言も三言も返って来るところが変わっていない。基本的にさほど口数の多くない住吉に対して谷地はよく喋る。だからこその営業向きなのだろうと住吉の方は感じている。 話の先を向けられた嬉しさに思わずいつも以上の笑みを浮かべる谷地も紅茶のペットボトルの封を切った。甘い液体を喉に流しつつ住吉を見遣る。まあね、と口の中で呟く横顔と、壁掛け時計を見比べた。——可能性があるのなら、そろそろ、だろうか。 「ねえ、これ終わったら、何したい?」 「……?」 重ねられた問いに、今度は住吉の眉根が寄る。唐突に、と言いたげな住吉と膝が付く体勢で谷地は体を傾かせた。 「あるじゃん。ぱーっと飲みに行くとか色々」 「……別に、」 置いた間に、含む色がある。谷地がふうん、と鼻を鳴らし、にわかに耳をそばだてる。遠くでエレベーターが到着する音が、した。 「…ねえ、」 椅子を鳴らして立ち上がる。完全に手を止めた住吉が見上げる視線を受けながら、パソコンが乗るデスクの前に無理矢理半身を捩じ込む形で立つと、緩い笑みを浮かべて住吉を見下ろした。近付く足音は住吉の耳に届いているだろうか。確認するように瞳を覗く。五感は、次の動作を待つ自分に注がれている。足音が、止まった。 「このプロジェクトが終わったらさ、」 フロアを覗く視線がある。囁きながら目を上げる。視線が、自分達を捉えた。 「ヨリ、戻そうよ。…智洋」 「——…」 住吉の肩に手を添えつつ、視線を投げ返す。暗い廊下、僅かにつけられたままの灯りが高坂の姿を浮かび上がらせている。住吉を挟み、わざと視線を重ねた。 「…何…」 「セフレじゃなくて。俺は、智洋とヨリ戻したい」 呆然と立ち尽くす高坂にも届くように、住吉の胸に沈みこませるように訥々と告げる。ぽかんと自分を見上げる住吉の表情は高坂には知る由もないだろう。視線が逸らされた。小さな——先程自分が鳴らしていたコンビニ袋と同じ音を立てながら、それでも足音は消しながら、高坂が立ち去っていく。谷地の双眸が満足気に弧を描いた。 「何言ってんだ、…そんなこと、」 とん、と谷地の胸が押し戻された。触るな、と目が言っている。この連れなさにどうしようもなく惹かれる自分もまたどうしようもないことは自覚している。胸に触れた手を取り、緩く握っては離した。 「そんなこと言ってる場合じゃないだろ、今は」 「今は、ね。…考えといてよ」 あくまで、声音は軽いままで重ねる。住吉から離れると、空になったビニール袋にさっさとゴミを集め、座っていた椅子をきちんと元の位置に収めた。谷地の顔をじっと見上げる住吉の目は、本心を探る目だ。逃れるように背を向け、軽い足取りで席を離れた。 「じゃあね。また、」 「…お疲れ、」 どこか気まずそうな声を後にフロアを出る谷地の口元にはやはり満足気な笑みが乗っている。廊下の向こうのエレベーターへ真っ直ぐに歩み寄った。階数の表示は1を指したまま動かない。 人の良さそうな、同期の上司の表情を思い出す。 自分であれば必ずそうする。抱えた仕事を全うしようとする真摯な恋人の姿を愛しいと思うのならば、見ていたいと思うのならば、差し入れのひとつや2つを土産に戻ってくる。——可能性に、賭けた甲斐があった。 先に目を逸らした方が負けだという話を知らないのだろうか。 ボタンを押す。エレベーターフロアに1人立ち、たった今住吉に触れた指を大切そうに握り込んだ。

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