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第54話

木曜の夜だということを思い出し、エントランスで足を止めたのは30分程前のことになる。木曜日は遅くなる、とあらかじめ告げるようになったのはいつの頃からだったか。高坂の妻はそこに合わせて予定を入れるようになっているから、それに準じて子供たちは祖父母の家に預けている。帰宅した所で家には誰もいない筈だ。 明かりの無いリビングを思い浮かべては自業自得だと自嘲の笑みを滲ませた。 エントランスには人気が無い。常夜灯だけが浮かび上がらせる硬いベンチに腰を下ろした。傍らには行き場の無くしたコンビニの袋がある。中には1度フロアを後にしてから思い立って駆け込んだコンビニで調達した2人分の夕食が入っていた。これをどうしよう、と半ば途方に暮れたように遠くを見遣る高坂の脳裏には、先程の谷地の視線がある。 住吉を挟み、投げ掛けられた視線の意味は考えるまでもない。 あれは挑発だろうかと思う。——否、あれは余裕だろう。 余裕を持った上で、住吉は自分を選ぶのだと高坂に告げていた。 貴方ではなく、自分だと。 「——待ってるんですか、」 溜め息を飲み込んだ刹那だった。コツ、という硬質な音と共に人影が現れた。今閉じようとしているエレベーターから伸びる人工的な光の中、細身のスーツを纏ったスマートな青年が自分へと歩み寄ってくる。谷地だ。気が付いた瞬間にだけ僅かに背が冷える感覚があったものの、不思議と逃げようとは思わなかった。 「もう少しやってから帰る、って言ってましたよ。住吉」 「…そう、」 真っ直ぐに自分へと距離を詰める谷地がちらりとベンチの上の袋に目をやる。少しだけ、笑った気配があった。正面で足を止めた谷地は高坂に腰を上げさせない。自分には用はないだろうと見上げる眼差しに、谷地が緩く首を傾けた。 「高坂さん、でしたっけ」 この男とはさほど面識は無いのだとその時になって気が付いた。偶然顔を合わせた際に、住吉の紹介とも言えない紹介で話を聞いただけだ。住吉の同期で、営業にいて、住吉、の——。 「…高坂さん。…いつまで、住吉のこと振り回すつもりなんですか」 「——…」 冷え切った声音に、本格的に血の気がひいた。同時に、先程谷地が住吉を挟んで自分に向けた視線を思い出す。この青年は自分に挑もうとも思っていない。勝つことを確信して物を言っている。——貴方では、無いと。 「…どっちが先に始めたのか知りませんけど。…火遊び、ってやつですよね。ただの」 ここで決着を付けようというのだろうか。当事者を不在にして話をまとめられるものではあるまい、と普段であれば高坂は気がつくことが出来る。ただ、突然の対峙と、ごく冷静に向けられる言葉に完全に先手を取られる形になった。——そもそも、例え谷地が住吉の【元彼】であるという事実が無かったとしても——自分は【不利】だ。 「元々それ程レンアイにのめり込むタイプじゃなかったんですけどね。だから俺も1度は振られたんですけど、特定の誰かと付き合うとかあんまり向いてないんですよ。アイツ。レンアイも仕事も程々に、みたいな所あるし。他人に興味無いタイプなんじゃないかな。…ね、それがなんなんです?」 自分の方が住吉を知っている。口には出さずとも、滲む声音と口振り、それと重なったままの視線が語っている。薄く笑みを浮かべていた谷地の相貌が、1段冷えたものに変わった。 「あんな風に誰かに入れあげる住吉なんて初めて見ましたよ。…ね。どんな手使って誘ったんですか。智洋のこと」 コツ、と小さく音が鳴った。呆然と動けずにいる高坂の視界の端で谷地が爪先を鳴らす様子が映る。口調と声音は余裕が伺えている。だが、どことなくではあるが、青年は燻る苛立ちを抑えているようにも見えた。 「家庭的で、エリートで、部下にも上司にも覚えが良いんですってね。高坂さん。営業の方にも聞こえて来ますよ。智洋の事も、そういうの使って誘ったんですか?」 これは詰問だと悟る。否定すべき箇所は否定しなければと思うも、高坂の言葉は喉から詰まったように出ては来ない。自分自身のパーソナリティなど今はどうでもいい。 始めたのは住吉だ。——だが、誘ったのは、いつからか——住吉が一方的に動くばかりではなくなっていた。 とっくに自覚をしている。 だからこそ、突き付けられる言葉の数々に、何も言うことが出来ずにいた。 そんな高坂に益々苛立ちを覚えるのか、谷地があからさまに溜め息を吐き出した。流石に腕を組むような真似はしない。それでも、スラックスのポケットに浅く指を差し込む。高坂の事を上司だとは思っていないのだろう。実際に直属の上司ではない。もし上司であってもきっと、谷地は高坂を恋敵だと思っている。 「…ま、なんでもいいです。そういうのって、結果ですから。俺は今、…っていうか、これからの話をしたいんです」 「……」 「高坂さん、家庭、捨てる気あるんですか」 一瞬、脳裏に妻子の顔が浮かんだ。——それが一瞬であったことが、自分の現在地を示している。ようやく口を開こうとしたものの、谷地の方が一手早かった。 「家庭も住吉も手放せないとか、ワガママだと思いませんか」 遠くでサイレンの音がした。どこかでパトカーが走っているのだろう。谷地はちらりと音の方へと目を向けて、また高坂を見下ろす。 「俺、智洋とヨリ戻しますよ」 不意に、さっき夜のオフィスで谷地と向き合っていた住吉はどんな顔をしていたのだろうかと想像する。住吉はどんな風に谷地に触れていたのだろうか。どんな目をして谷地を見つめていたのか。 ——自分以外の人間を見つめ、触れる住吉を思う。それだけで、叫び出してしまいたい衝動に駆られた。 益々言葉が詰まる。何かを言わなければと必死に頭を巡らせ、ようやく掠れた声を発した。 「…住吉、くんは?」 「……」 谷地に余裕が漂っているのは、谷地が捨てる物も失くす物も無いからだ。自分のように背負うものはおそらく何も無いのだろう。だから住吉だけのことを考えていられる。無心に住吉に向き合うこもができる。 だが、そこに住吉の意思は見えない。 「住吉…、…智洋は、なんて答えたの?」 敢えて名を口にした。 そんな風に尋ねる事が出来たのは、さっきオフィスで谷地に向き合っている住吉の表情を伺うことが出来なかったからそこだろう。 住吉の意思はここには無い。少なくとも、自分は知らない。住吉の口からは、何も聞いていない。 ただそれだけを掴んで手繰るように、高坂はようやく立ち上がった。谷地の視線が上を向く。真っ直ぐに対峙した姿は、どこが華奢にも見える青年だった。 「さっき、智洋はなんて答えたの?」 「…智洋、とか」 谷地の足が、半歩後ろに下がる。怯ませた、とは思えない。返ってくる答えが怖い。その一方で、谷地が明確に答えを口にしないことが、高坂をほんの少しだけ奮い立たせた。 「おかしいでしょ。ただの部下のこと、智洋とか呼ぶの」 「…選ぶのは、智洋だから」 あくまでも、声音を穏やかにすることに努めた。じっと目を見つめ返し、軽くエレベーターに視線を向ける。住吉はまだ、デスクから離れずにいるだろうか。 谷地が視線を上向かせる。わずかの間、何かを考えるように間を置いてから再び高坂と合わせた目は、もう笑ってはいなかった。 「……それじゃあ、今すぐ聞きに行きます?…本人に」 「……今じゃないよね?」 コンビニ袋を手にした。ここにいれば、やがて仕事を終えた住吉は降りてくるだろう。だか、そこを捕まえて自分と谷地とのどちらを選ばせるかなど——できるはずがない。 1段下がった声のトーンに谷地がようやく肩を揺らした。怪訝にひそめられる眉を軽く見据え、緩く首を振る。 「確かめるのも、決めさせるのも今じゃない。…今、智洋を惑わせるようなことは俺はしたくない」 少なくとも今——仕事に没頭している住吉に、そんなことを問うのは酷で、自分がすべきことでは無い。 熱に羽化されているばかりではいけない。いい大人が、谷地の言うレンアイ如きに振り回されて、そこに仕事を天秤に載せるような真似はしてはいけない。少なくとも、自分だけは自分を律していなければいけない。 谷地のように脇目も振らずに走ることは出来ない。そうであるのなら——自分だけは、自分を制していなければならない——。 谷地が今にも奥歯を噛むような気配が届いた。自分を睨み付ける瞳に、自分は果たして年長者としての、上司としての欠片を見せ付けられただろうかと内心で思う。次の一手を待つ高坂と、次の矢を捻り出そうとする谷地の耳に、ほんの小さな電子音が届いた。同時にハッとして顔を上げる。エレベーターの階数の表示が動き出していた。 「…今日は、おしまいにしようか」 エレベーターはどこで止まるだろう。住吉がいる階で止まる根拠は無いが、止まらないという根拠も薄い。互いに対峙する局面では時間の確認もままならないが、住吉をこの場に置くような真似は避けたかった。 「……大人の余裕ってやつですか」 眉を垂れて宥めるように笑う高坂に、谷地が口を歪めて笑う。正面玄関はもうとっくに閉まっている時間だろう。守衛室のある方向へと足を向けつつ、高坂が浅く鼻から息を抜いた。 「…余裕なんか、…ないよ」 あるとすれば、住吉や谷地に比べての年季の差だろう。恋愛に——住吉と向き合っている時の自分に余裕があったことなどあっただろうかと苦笑が滲む。 貴方では駄目なのだと、突き付けられた。 それでも、退くという選択肢は無い。 ——捨てることを、選ぶことを覚悟したのは、いつからかだったのか——。 浮かべた笑みを見られぬように足早に歩み出す。後ろから着いてくる形になった谷地の足音に、住吉を立ち会わせることを回避出来たことを確かめた高坂から無意識に脱力の溜め息が漏れる。上下させた肩の先、2人分の夕食が入るコンビニ袋がやけに重たげに揺れていた。

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