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第55話
普段より早足気味に感じる住吉の背中を眺めながら人気のない廊下を歩く。部下の背中が少し痩せた事は見慣れた衣服の上からでもわかった、
住吉が任命され、関わるプロジェクトは大詰めを迎えている。来週にはクライマックスといえるプレゼンの会議を控え、住吉は追い込みを掛けるべく働いていることも高坂は当然知っていた。今日が木曜日であることも知ってはいたが、先週のような轍は踏まないと意識している。自分よりも仕事を優先する住吉の成長が誇らしく、眩しくて──寂しさや、いじましさを感じていた。
その住吉に声を掛けられたのは食堂での昼食を取り終わった頃だった。どこかから見ていたのだろうかと思うような、箸を置いたタイミングで歩み寄ってきた住吉にそっと耳打ちされ、共に食堂を出て今に至る。高坂が頷く様を確かめてからすぐに背を向けてしまった住吉の表情は伺えなかった。表情はわからないが今向かっている場所はわかる。いつもの、フロアの隅にある、ほとんど使用されることのない半分は納屋のようになっている会議室だった。
ドアノブをまわす一方の手で招かれ、高坂が先に部屋に入る。雑然と置かれた物の隙間から入る陽の光によって室内は完全な暗闇ではないが昼間というには薄暗い。互いの顔は見られる明るさの中、住吉が後ろ手にドアを閉め、手探りで旧式の鍵をかけるのがわかった。
「…あの、」
何か用か、と尋ねるより先に住吉が口を開く。高坂よりも幾分か低い背の青年が軽く顔を伏せてしまうと、やはり表情は見えにくくなってしまった。
「ん?」
「…今日、木曜日なんですけど、」
住吉の視点は床の上、斜め下の辺りに向けられている。ぼそ、と口を開き、言いにくそうに声を発するものの2人きりの室内では言葉を取り零すことはない。うん、と頷く高坂に、小さく息を吐き出す気配が伝わってきた。
「今日は…谷地とプレゼンのリハする予定で、…だから、今日も主任と、…いられないんです、」
声がすぼまっていく様がらしくないと思った。一方で、すみません、などと言わないことは住吉に相応しいと思った。
そして、住吉の口から零れた名前にほんの少しだけ心がザワつく気配を覚える。先週の、静かなやり取りを思い返す。あの時谷地に言った言葉に偽りはない。大切なものは、自分も住吉も、ひとつだけではないのだ。
反応を待つ間、垂れたままの頭を見下ろす。抱き締めたくなる衝動を堪え、深く頷いた。
「ん。…大丈夫だよ。分かってるよ、」
きっとこのことを伝える為に自分をここへと誘ったのだろう。出来る限り柔らかな口調で答える。不意に何が動く気配に釣られて視線を動かすと、住吉がスラックスの横できゅ、と拳を握る様が見えた。
「……けど、来週は、」
「うん、」
来週の今頃は住吉が携わるプロジェクトは一段落している予定だ。住吉は努力の甲斐があるプレゼンを無事に終えているはずで、その結果を待つ日が数日続く。来週の木曜日は、空いている。
目元に滲む笑みをそのままに高坂がまた頷く。住吉は何かハッとしたように息を飲んでから、意を決したように顔を上げた。目元が少し紅潮している。切羽詰まった表情が不埒にも──ベッドの上での青年を彷彿とさせ、高坂は微かに息を詰める。
「ていうか、…来週っていうか、…俺、プロジェクトが終わったら、っていうか成功したら、」
動揺している。
住吉が心を乱す様子を垣間見るのはいつの時以来だろうか。普段はどちらかといえば冷静で、自分からも他人からも1歩引いた立ち位置でものを見る男だと思っていた。最近の若者らしく、何かに熱くなったりすることも無く、ともすれば何事にも冷めているようにも見えることもある。感情の波風のようなものとは縁遠い印象がある。その住吉が、自分を追い詰めるように慌て、焦っているように見えた。
それでも視線は逸れない。受け止めるように瞳を覗き込む高坂を軽く睨むかに眉間に皺を寄せたかと思うと、1度息を飲み込んだ。──それは、告白の前の呼吸に似ていると思った。
「──成功したら、主任に、話したいことがあるんです」
ようやく選び、絞り出した言葉は真っ直ぐに高坂へと届く。驚きよりも、何故か安堵の色が胸に広がる。
住吉は重要なことを言おうとする空気に包まれ、そしてそれを口にした。その事がもう、住吉が言わんとすることを伝えているようなものだと思うのは高坂の自惚れだろうと思っては、その浅ましさに近いものを悟られてしまわぬように小さく目を瞬かせる。返事を待つ住吉の目は真剣なままであったが、不安に怯えているようにも見えた。
「……うん。わかった、」
先程と同じ声音に住吉が深く安堵の息を吐き出す。思わず漏れたと思しき自分の息に驚き、気恥しさを隠すように今度こそ眉間の皺を深くする住吉をやはり抱き竦めてしまいたくなる。軽く目を逸らしてから、小さく唇を開いた。
「─俺も、…智洋に話したいことがあるんだ、」
「──…、…はい、」
きっと、互いに感情は重なっている。
来週など待つことなく、何かのきっかけひとつで今すぐにでも確かめ合い、答え合わせをすることすら可能なのだろう。
もどかしい感情の中で互いに線を引き合っているような関係だ。
その関係がいつから始まっていたのかを──確かめてみたいと思った。
その感情を制するようにドアの向こうでチャイムが鳴った。昼休みの終了が近いことを知らせる音に住吉は文字通りに弾かれたように顔を上げる。じゃあ、と唇が動きかけた瞬間を見たかと思うと、高坂の胴体に温かさが巻き付いた。
「……ちょっとだけ、」
衝動に駆られたように伸ばした住吉の両腕は盗むように高坂の体を包み込む。ぎゅ、と音がするように込められた力はこの数週間、叶わなかった、堪えていた逢瀬を少しでも埋めようとするかのように高坂へと伝わる。
持ち上げた両腕で住吉の体を抱き締め返す。ほ、と安堵する息で背が上下した。
ベルから、始業までの5分間のうちの数分を切り取ってしばらく互いに身を寄せあった。名残惜しげに腕と体を離し、照れながら今度こそ「それじゃあ、」と口にして背を向けた住吉をもう一度抱きしめたいという衝動を堪え、高坂は掌で覆うようにして自分の顔をひと撫でしてから今住吉が出ていったばかりのドアに指を掛けた。
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