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第56話

「──以上です。ご清聴ありがとうございました」 ぺこりと頭を下げ、手元の操作でパワーポイントの表示を切った。深く息を吐き出したのも束の間、住吉はすぐに片方の手にある資料にボールペンを走らせる。就業時間の後に申請して借りた狭い会議室には住吉と谷地の2人しかいない。何度目かのリハーサルを終えた住吉を見守っていた谷地は脇に置いたスマートフォンのディスプレイを表示させて時間を見遣る。息をついた途端に過ぎる空腹に顔を上げると、ビル街のネオンが窓の外に広がっている様が目に入った。日はとっくに落ちている。 「ぼちぼち終わろっか、」 腹減ったよ、と冗談混じりに言いかけて止めたのは住吉が真剣な目をしていた為だ。 彼がこのプロジェクトに真摯に取り組んでいることはよく知ってる。──誰よりも知っているという自負が谷地にはある。プロジェクトに関わるメンバーは他に数人いるとはいえ、ほとんど相方のように組まされたことは僥倖でしかない。どれだけ住吉の側にいて、どれだけ会話を交わしていても不自然ではない。住吉と公然と2人きりになれる立ち位置は、隠し込んでいた感情を浮上させるには十分過ぎていた。 「疲れてる所に反復ばっかしててもあんまり意味ないだろ、」 実際、住吉はここ数日の間に何度同じ原稿を読み、パワーポイントを操作しているかわからない。慎重で入念な住吉の姿を見る事は新鮮だったが、疲労は間違いなく蓄積されているはずだ。ただでさえ細身の住吉が少し痩せたことを、谷地は知っている。 「…ん、」 ようやく顔を上げた住吉はそのまま壁の時計を見上げる。納得したように頷き、肩を回してボールペンを手放した。やはり疲れているのだろう、側にあるパイプ椅子にすとんと腰を下ろし、そこを始点にして手を伸ばしては会議用の長いテーブルの上に広がる紙を集めていく。束ねた紙をとんとんと揃える様を見遣りつつ立ち上がり、谷地はパソコン周りの片付けを始める。机から床へと伸びるコンセントのコードを手繰りながら背を向ける形で口を開いた。 「…これ終わったらさあ、何したい?」 「……なんだそれ、」 手元を動かしながら尋ねたのはほんの世間話のつもりだった。住吉の返答次第ではこの後の食事に誘う流れや、その内容に運んでいこうという算段がある。相手の手が止まる気配に気が付き、首だけを向けた。じっと何かを考える横顔を眺め、再び口が開くのを待つ。 「……別に、」 「──俺はねえ、」 別に、等と素っ気ない返答を寄越すような間ではなかった。普段通りを装う住吉の沈黙には明らかに何かを含んでいた。彼の頭の中に過ぎる人間など一人しか思い浮かばない。 このプロジェクトが終わったら、結果の可否に関わらず「彼」は住吉を褒め、労うだろう。 話に聞く「彼」は部下を大切にし、部下に慕われる男だ。 だが、「彼」と住吉の関係を考えた時に、その先のことを考えないことはいっそ不自然だとすら思う。 それ程深い関係の中に割って入ることを諦めるという選択肢は──まだ、生まれていない。 住吉の返答の語尾に被せるように明るい声を発した。人気のない部屋に響いた場違いにも聞こえる声音に住吉が顔を向ける気配がした。コード類をまとめる為にかがみこんでいた体勢から立ち上がる。数歩先にいる住吉の後ろには細いガラスを嵌められたドアが見える。節電の為に疎らに照明のスイッチを切られた薄暗い廊下に人気はない。 「俺はね、…智洋と寄り戻したいな、」 「──、…この間、」 きゅ、と住吉の眉間に皺が入った。座ったままの低い姿勢で自分を見上げる目がその話は終わった筈だと云っている。谷地の中では終わってなどいない。歩み寄り、わざとらしく首を傾げて見せた。しつこいと目だけで退けようとする住吉に怯える理由も谷地の中には存在しない。 「…ねえ、いつまで遊んでるつもりなの?…あの人と。」 「なに…、」 じわりと縮める距離の中に動揺の色が浮かび上がった。この男はこんな風に動揺する人間だっただろうか。自分の知っている住吉は、いつも何処か冷めている風に見えて、表情の変化すら乏しい男だという印象があった。何を考えているのかわからず、時にぶっきらぼうにすら感じる。 昔から、分かりにくい男が好きだった。そんな男の感情を自分の一挙手一投足や、一語一句によって引き出すことが好きだった。自分だけに見せる感情の機微を垣間見る瞬間が好きだった。 だから、住吉を好きになった。だから──今、背が震える程の感触を得ている。 「高坂さん。奥さんも子供もいるんでしょ。…意外なんだよね。智洋が人のものに手出すとか、」 住吉の口から高坂の話を聞いたことはない。だが自分は既に知っている。瞠目する住吉が口を挟む余地を与えず、浮かぶ限りの言葉を連ねる。雄弁なのは言うまでもなく谷地の方だった。 「…何言って、」 「智洋が人のもの欲しがるとか、…本気でレンアイするとか意外だなって。だから、いつも通りの遊びなんだろうなって思ってるんだけどさ、」 谷地が口を閉じると室内には空調の音が低く響く。不意に、遠くから硬い靴音が聞こえた気がした。気の所為だろうか、と耳をそばだてる谷地に対して住吉は硬直したまま谷地を見上げている。他の音など耳には入って来ないのかもしれない。追い立てる快楽が谷地を支配していく。違うのか、と伺う為に可愛らしく小首を傾げた。 「…なんなんだよ、…意味わかんねえこと、」 「誤魔化さなくていいよ。ついでにさ、遊びでも良いんだよね」 歌うように重ねる谷地の語尾に住吉の片眉が上がる。意味がわからない、と変化する様を上から覗き見る谷地の手が住吉の肩へと伸びる。耐えきれない指が、するりと肩を撫でた。 「別に高坂さんと遊んでても良いよ。でもそれならさ、俺も同じでしょ?」 「……」 「寄り戻したいってのは言い過ぎかな。俺ともまた遊ぼうよ、って話。遊んでるだけならセフレの俺が相手でも同じじゃない?本気じゃないならセフレが1人でも2人でも同じでしょ」 自分の声の合間に届く靴音に意識を半分傾ける。靴音が止まる。ごく、近くで。 ──「彼」が先週と同じ行動を取るかを断定は出来なかった。 だが──自分であれば、きっとまた先週と同じ行動を取るだろうと思っていた。 働く恋人を労い、少しでも傍にいようと思った。 いくらあっても足りない時間を少しでも補いたいと。 その点でも、自分は「彼」とは同じだろう、と。 肩を撫でた指で住吉の耳を擽る。黙り込んでいる住吉が恐らくは必死に探す退路を塞ぐつもりで言葉を重ね、小さく笑った。見上げる瞳に目を合わせ、身を傾ける。視界の端にはドアに嵌ったガラス板があり、その端に、男の姿が掠めた。 「ね。俺と高坂さん、何が違うの?…それともさ、」 声は潜めるも、発音は明瞭にと意識する。この部屋の防音はどれくらいのものだろう。 「まさか本気じゃないよね。高坂さんと、」 住吉が息を詰める。 上からも下からも信頼が厚く、順当な道を歩み、幸福な家庭が在る男。 その男が選んだのか、住吉が選んだのかは谷地は知らない。 いずれにせよ、これは不貞だ。 不貞を知られた時、断罪されるのは、どちらだろう。 この局面で選び、手に取るものはなんだろう。逡巡する眼差しにやはり快楽に近いものが谷地の中に走る。自分の手中で逃げ場を無くす様に、無意識に滲みそうになる笑みを堪える。不意に、住吉の肩が少し落ちた気がした。 「……、本気、なわけないだろ、」 絞り出され、掠れた声にとうとう頬が綻んだ。 自分は今夜この言葉が聞きたかった。 声が、弾んだ。 「うん。…知ってたよ、」 陥落とは、このことを示すのだろうか。 会話は、ドアの向こうに聞こえただろうか。 ──ひとまず、今はどちらでも構わない。 重要なことは、今これから自分が取る行動を見せ付けることだけだ。 微かに頭を垂れた住吉の髪を撫でる。逸れる視線に構わず、低い位置にある唇に自分の唇を押し当てた。反射的に瞼を閉ざした住吉とは裏腹に、瞼を開けたままの口付けの最中、谷地はドアの向こうに呆然と佇む男──ビニール袋を片手に提げた高坂と目を合わせて、臆する事無く目を細めた。

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