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第57話

天罰が下ったのだと思った。 ビルの間、ネオンが照らす道を歩く高坂の足取りは見るからにとぼとぼと力無く、頭はほとんど項垂れたようになっている。片手にビジネスバッグ、そして片手に持つコンビニの袋が必要以上に重たく感じられた。コンビニ袋の中には弁当やペットボトルの飲料や缶コーヒーが入っている。終業後、木曜日は遅くなると告げてあるのだと思いつつ一人気ままな夕食を済ませ、その足でコンビニに入った。住吉だけに差し入れをする訳にはいかないだろうと買い込んだ2人分の食料はすっかり行き場を無くしてしまっているが、それらをどうしようと考える意識は今は無い。 そもそも、あの会議室の前からどうやってここまで──自宅近くのこの道まで歩いて来たのかすらよく覚えていない。 廊下を去り、オフィスビルを出て、駅までの道のりを歩み、電車で数駅を経たはずだ。日常の動作はほとんど無意識に染み付いていたのだとしか言いようがなかった。 谷地とは、目が合っただけだった。 ドアのはめ殺しのガラスの向こうで、住吉は自分に背中を向けていた。あの時目が合ったのは谷地だけだった。 煌々と明るい照明の下、どんな会話が交わされていたのかはわからない。会議室の防音はやはりしっかりしている。 ただ谷地は、恐らく自分の存在に気付いていたのだろう。 住吉に何かを語り掛けながら彼に触れ、そしてやがて唇で触れた。 その時寄越された視線は、確かに笑っていたのだ。 勝ち誇った目をしていた。 あれは全て、自分がドアの向こうに立っている事を知っていての行動だった。高坂は不思議と断言が出来る気がした。 思い返しては零れ落ちそうになる溜め息を飲み込む。 昼間住吉と交わしたささやかな、戯れのような抱擁が幻のようで、今すぐに感触を引っ張り出したくなる。道に人気はない。それでも、自分の体を抱き締めようにも両手は荷物で塞がっていた。 昼間のことをなぞるように反芻する。呼び出された部屋で住吉が口にしたこと全てを思い起こそうとしていた。 話したいことがある、と言っていた。 自分も同様だと告げたのは、住吉と自分の要件は同じだと思った為だ。今まで互いに真っ直ぐには伝えてこなかった、だが明らかに二人の中から滲み出し、隠すことの出来なかった想いを口にする瞬間が来るのだと思っていた。 先週の谷地との対峙を思い出す。 今はまだ、と高坂は言った。牽制のつもりでもなかったあれを、明確な牽制だとすれば良かったのだろうか。 大人の──上司の分別のようなものを谷地に求めることに無理があったのかもしれない。 若者はいとも簡単に自分を追い抜き、住吉に触れた。 住吉の手がどこにあったのかはわからない。 あのままあの場所で2人の様子を見ることは出来なかった。 住吉の表情を見る事が出来たのなら、自分はそれを直視出来たのだろうか。 天罰が下ったのだ。 道ならぬ恋に浮つき、一線を越えた想いを抱き、全てを放り出しても住吉と繋がっていたいと思ったことへの天罰だ。 想いが重なっていたのかなどとんだ自惚れだろう。 自分には家庭がある。そこに背を向け、若い、同性の人間相手に入れ込むことなど、本来はすべきでは無かった。だからこれは天罰だ。 「……言ってくれれば、良かったのに、」 自分は谷地と繋がっていると、住吉の口から告げてくれたのなら良かった。 そうすればきっと、自分は一時失恋の痛手を引きずったかもしれないがそのうち記憶も想いも遠いものとなっただろう。夢現のような住吉との関係を断ち、現実にある家庭へと戻るだけだ。 それとも、住吉の言っていた「話」とは谷地とのことなのだろうか。 そうであれば──住吉の口から聞くことと、自分から切り出すこととの、どちらが楽で、傷つかないのだろう。 ぼんやりと、というよりもふらふらと辿り着いた自宅のマンションのエントランスを潜る。手にある食料は冷蔵庫に収めるしかないが、妻にはどう理由を付けようかとエレベーターの中で考えた。ドアの前で1度深い溜め息を鼻から逃し、鍵を差し込むも、不意に違和感を覚えた。開いている。今日は木曜日だ。自分の帰りが遅くなると告げている日は妻は子供たちを連れて実家での夕食を取っているはずだった。時間を確かめずにドアを開く。玄関や廊下は暗かったが、リビングがある方向からは光が漏れていた。 「ただいま…、」 袋をカサカサと鳴らしながら廊下を行き、リビングへと顔を出す。ダイニングテーブルに座る妻の背中が視界に入ったが、その細い背が高坂の声によってびくりと跳ね上がったのがわかった。 室内の静けさからして、子供たちの気配はない。寝室で眠っているのか、それとも妻の実家に預けられているのかもしれない。ごと、という唯一の音は、妻が手にしていたらしいスマートフォンがテーブルの上に預けられた音だった。 「…早かったのね。今日は、」 「…ああ、うん。残業、なかったから、」 白々しい、と思うのは今更だと思った。妻は視線だけを寄越してからまたテーブルへと向き直る。微かな違和感に似たものを感じつつも高坂は1度キッチンへと入り、コンビニ飯が詰まったビニール袋をカウンターへと置いた。その気配を背中で探っていたような妻が、今度こそ明確に振り返った。 「ちょうどよかった。話したいことがあるの」 「──なに、かな、」 既視感を覚えた。 耳慣れた女の声で言われた言葉は、昼間住吉に言われたセリフと全く同じだった。ただの偶然だろう。それでも背に走るひやりとしたものを感じながら、高坂は目元で微笑みダイニングテーブルへと歩み寄る。定位置である、妻の差し向かいの席の椅子を引き、腰を下ろすか否かのうちに女は口を開いた。 「離婚してほしいの、」 「──…、え…?」 時が止まる、とはこういう瞬間のことを言うのかもしれない。静かに向けられた言葉を飲み込み、理解すると共に一気に真っ白になる頭の隅から、今度は混乱が追い掛けてくる。 最初に思ったのは無論──バレたのか、という酷く漠然としたものだった。心臓が早鐘を打ち始める。嫌な汗が背に流れ始めるのを感じつつも、咄嗟に言葉を探した。 「急に、どうしたの、」 「赤ちゃんが出来たの」 発した声は震えた。だが、妻の声は平坦なままで、その声音のまま重ねられた単語に高坂はいよいよ絶句した。 3人目の子供が。 だが──月齢を伺うまでもない。心当たりは、まるで無いのだ。 性交渉の機会が減ったことは、住吉と関係を持ったことが理由では無い。 2人目の娘が生まれた後から、恋人同士の延長から父母という関係に変化していく中で性的なものからは遠ざかっていた。その事を互いの、仕事や育児の忙しさを理由とし、高坂はもう、最後がいつだったのかもわからない程妻とは寝ていなかった。 どういう事なのだろう。呆然と立ち尽くす高坂の反応をじっと確かめた後、妻は自らの腹部を撫でる。その動作は1人目の時も2人目の時とも相違なく、場違いな懐かしさすら過ぎる程だった。 「心当たり、ないわよね」 「…な、い」 「私、他に好きな人がいるの、」 力が抜けた。妻は「3人目」とは言わなかった。それが意味する事実は一つだ。 引かれたまま主を待つ椅子にすとん、と体が落ちた。見開かれた高坂の目を見据えた妻が間を置かずに重ねる。何かを諦めたような、それでいて、泣く娘を宥めるような目をした妻は、眉を垂れて笑った。形の良い、愛嬌のある唇がはっきりと動く。 「木曜日に会ってた人なの」 ──天罰が、下ったのだと、思った。

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