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第58話

酷く、疲れているのだと思った。 昨夜帰宅後に切り出された妻からの申し出を、高坂はその場で了承した。振り返っても他に選択肢はなく───妻の申し出を撥ね付けるには自分にはあまりにも後ろめたいことがのしかかっていた。 半ば放心するような瞳で頷いた高坂に、もうすぐ妻ではなくなる女は想像した通りだ、と言うような少し寂しげな目をして鼻から息を抜き、時計を見た後に細かい事は後日に決めましょうと小さく笑って席を立った。その後のことは、あまりよく覚えていない。 熟睡出来ない夜を終え、リビングに顔を出すといつも通りに朝食が並べられ、妻も2人の娘も席に着き、普段と1分も乱れないような変わらない風景がそこにはあった。これがそのうち無くなるのだ、という実感も無い。ただ、妻が変わらない様子で接してくる為に、高坂自身も何も変わらない様子で妻と娘と会話を交わし、超職を取って家を出てきた。 妻に男がいて、その男の子を身篭っているという事実は離婚の理由としては正当だと感じてしまうのは、自分の中には住吉という男がいるからだろう。 要は、夫婦でありながら互いに互いの知らないところで不貞を働いていた。ただそれだけの話だ。ありふれた話であるとすら思える。それでも。 それでも───バチが当たったのだ、という意識は高坂からは消えてはいかない。 出社する頃には、重たい頭と体は切り替えられた。我ながら器用だ、と内心で関心と自嘲を織り交ぜつつ日中は無心に働いた。仕事がある事に救われることもある、とやはりありふれたことを思いつつも、気を抜いてしまうと背や肩に一気に疲労や、あらゆる感情がのしかかって動けなくなってしまいそうだと思っていた。 終業時刻を知らせるベルが鳴り、高坂は自分のデスクで顔を上げた。住吉は自席で真剣な目をしてパソコンに向き合ったまま動かない。コンペは来週に控えている。彼は今日も残業だろう、と思うと無意識に頭が垂れかけた。住吉といられないのなら、自分は今夜どうしよう。そんなことを、やはり無意識に思ってははっとし、そして自嘲する。 住吉はもう、谷地のものなのに。 この期に及んで住吉を求めている自分に呆れつつ、席を立った。さして急ぎでもない仕事を思い出した高坂は、昼間使ったファイルを1冊携えて重たい足取りでフロアの隅の倉庫へ向かう。人気の無い倉庫は、社内でも1人になりたい時のうってつけの場所だった。 定時で退社していく社員達とは逆の道を靴音を響かせながら歩いていく。たどり着き、扉を開いた倉庫は思っていた通りに無人であった上に、少し埃っぽさすら感じられた。 ファイルを所定の位置に戻し、そのまま脱力したように側の壁に背を預けた。掌で顔を覆い、深く息を吐き出す。日中堪えていたものが空気と音となって体内から抜けていく筈が、胸中は一向に軽くはならない。 自分は何処へ行くべきなのだろう。 思っては呆然とする心地に襲われる。 自分だけが悪かった。 それでも、妻も─── 住吉が、自分の元を離れていってしまうというのなら、それ以上に、途方に暮れることは無いかもしれないと思う。 鼻の奥が熱くなる気配を感じて眉を寄せた。このままこの場所に佇んでいてもどうにもならない。それでも高坂は、1度止めてしまった足を動かすことが出来ない。 不意に、部屋の外から足音が届いた。 定時で帰る人の群れの移動は終わっている。この人気のない場所に用がある人間はそういないだろう、と思いつつ耳を済ませるも足音は廊下から部屋へと流れてくる。人と会うことの億劫さに淡い息を吐きつつも、自分の尊者に気づかなればそれでも構わない、と息を潜めた。 「…主任?」 「───…、」 足音の主は酷く聞きなれた声で自分の名前を口にした。脳裏には嫌でも顔が浮かぶ。どうして、と返事をすることすら逡巡する高坂の目の前に、ひょいと棚の影から姿を現した男は脳裏に浮かんだ男と相違ない。部屋にやってきたのは、住吉だった。 「…住吉、くん、」 「…お疲れ様です」 軽く目を丸くした高坂に歩み寄る住吉は不可解そうに視線を逸らしている。どうしたの、といつものように声をかけようとするも喉の奥に引っ掛かりを覚えたように上手く声を発する事が出来ない。上着を着ていない、住吉のシャツの薄い色が妙に眩しく感じた。 「…なんか…、主任が、ふらっと出ていったんで、」 気になったんで。ぽつ、と呟く住吉はいつもと変わらない様子をしている。ともすれば無愛想に見える目元や口元の形の良さに見蕩れては、高坂の胸に虚しさが過ぎる。あれにはもう触れてはいけないのだ、と思っては、誰かに自分のものを取られるという感覚はこれなのかと思う。 ───人のものを取ったのは、結局一体誰だったのか。 始めたのは間違いなく住吉だ。身体を暴かれ、未知の快楽を教えこまれ、それとは別の何気ないやり取りの中でいつしか住吉に惹かれていた。その久方ぶりの恋さえ心地よく、住吉から注がれる視線もまた自分と同じ色をしているのだと確信しかけていた。 全て、ただの戯れの一環だっただけなのに。 「主任?」 ぼんやりと立ち尽くしたままの高坂に住吉が距離を詰める。様子のおかしい高坂を案ずる為に軽く眉を寄せては指を持ち上げ、高坂の頬へと触れようとした。 「…っ、」 逃げようにも、逃げる場所が無い。窓のない壁に背を向けたままの高坂は明らかに一瞬顔を歪め、呼気を詰めた。その様に住吉はますます怪訝に眉を顰めると、そのまま指先で高坂の頬に触れる。 「なにか…ありましたか、」 住吉のまっすぐな瞳が高坂へと向けられる。その視線すらもう人のものなのだ、と思うと───酷く寂しくて、酷い疲労感に襲われた。 「……ねえ住吉くん、」 頬に触れた指を上から包み込む。この期に及んでまだ触れたいのだ、と自覚しては自嘲して微笑んだ。おかしな、今まで見たことの無いような色をした高坂の笑みに住吉が目を瞬かせるのがわかった。 息を吸う。泣き出したくなる感覚を強く飲み下し、唇を開いた。 「…もう、やめようか、」 「───え…?」 指先を包み込んだ手が熱い。言葉とは裏腹に、自分はこの指を離すことが出来ていない。情けなさに、また酷く泣きたくなった。 「こういうの、……二人きりで会うの、もう、やめようか。」 口にして、穏やかに笑う。 自分はいつも通りに笑うことが出来ているだろうか。 思う一方で、自分は酷く疲れていたことを思い出した。

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