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第63話

「…っ、」 もうじき始業開始のベルが鳴る頃だろうか。 先程までフロアの廊下に行き来していた他の社員は各々の持ち場へと向かったのか、いつしか周囲には人気が無くなっていた。 高坂はどこに呼び出されたのだろう。 部屋を飛び出したものの、どこへ行くべきかわからず足を止める。どうしよう、途方に暮れるような思いで、それでもまた硬い床を蹴る。エレベーターホールへと向かう角を曲がった所で、幾度も追いかけたことのあるその背中を、見た。 「主任…っ、」 振り絞ったような声が出た。 背中が振り返り、驚いた瞳が住吉を見る。 高坂だ。 何かを言おうとするも、喉の奥が吊れたように声が出ない。高坂は部長に呼び出されたのだと誰かが言っていたことを思い出す。だったら、自分も、口を開きかけた刹那、高坂が真面目な目をして彼の唇の前に人差し指を立てた。 「主、」 「ダメだよ、」 何を咎められたのかはわからない。ただ、高坂のポーズは静かに、を意味するのだろうということはわかる。口をつぐみ、足音を潜めるようにして歩みを寄せる。高坂はそれすらも咎めるようにごく小さく首を横に振った。 「主任、俺、俺も…っ、」 ようやく発した意思は自ずと小さくなる。 モザイクを掛けられた自分の姿が蘇る。 あの衆人に見せ付けるように貼りだされた写真の件で呼び出されるのなら、自分は同罪だろう。 否、罪の重さは自分に比重がかかるはずだ。 高坂一人を矢面に立たせることは違う。 高坂が何らかの処分を受けるのだとしたら、自分も同じか、それ以上の罰を受けるべきだ。 「俺も、一緒に、」 「───大丈夫だよ」 それ以上近寄ってはいけないよ。伝えるように高坂の手のひらが住吉に向けられた。 立ち止まる住吉を褒めるように、宥めるように、高坂は───笑った。 「主任、」 「大丈夫だよ。住吉くんは何も心配しなくていいからね。大丈夫、」 頭上で始業のチャイムが鳴った。 それを機にしたように、高坂は住吉に横顔を向けてエレベーターのボタンを押す。上層階へと向かおうとする高坂の指に、この期に及んで触れたくなる住吉は、喉の奥から込み上げる熱さを堪えて首を横に振った。 「…何も言わないで。ね。住吉くん、」 エレベーターが開く。 「大丈夫。ね、」 背筋を伸ばして足を踏み出した高坂は住吉を振り返ると、穏やかで、優しい笑みを残して機械の中に消えていった。

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