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第68話

体調が優れない、と小さな嘘をついて二次会を免れた住吉は真っ直ぐに自宅に帰った。 一瞬、ミチルに会いたいと思ったがミチルの店は繁華街の住みにあり、二次会に流れた連中と顔を合わせる可能性を思って止めた。 ───ミチルには、今の心境を見透かされる。 頭の隅にはその意識もあった。 「つっかれた…、」 ただいま、と誰もいない部屋に呟き、靴を放り投げるように脱ぎ、寝室へと直行する。照明も付けず、月明かりと周囲の建物からの明かりに薄く照らされた部屋の中でベッドに倒れ込んでしまおうかと思うも理性が邪魔をする。結局ずるずると座り込み、ベッドマットの側面に背中を預ける形で天井を仰いだ。 スラックスに入れたままのスマートフォンの硬さが体に触れている。取り出し、無意識に指を動かして通話の場面を開く。 もう幾度も繰り返した動作は、画面の隅に表示されている時刻を言い訳にして止めた。 高坂は電話に出ない。 最後に会ったあの日から、発信の履歴は積み重なっている。文章としてメッセージを送らなかったのは、何を言えば良いのかわからなかったからだ。 テーブルの上にスマートフォンを放り、代わりに指先で灰皿を引き寄せる。一服だけして寝よう。気晴らしに吸っていたはずのタバコの本数は少しずつ増えていた。 上着のポケットから煙草の箱を取り出し、抜いた白筒を唇に寄せる。先端に火をつけると上がる香りは、否応無く高坂を思い出させた。 高坂は今何処にいるのだろう。 そればかりを考えている。 言いたいことは山ほどある。 今日のプレゼンの報告はいつどのようにしたら良いのだろう。 あの仕事は高坂が取ってきてくれたようなものだ。その報告を高坂以外の誰にすれば良いのだろう。 言いたいことは積み上がる。 会って、顔を見て、自分は───。 「───っ、」 高坂の匂いが部屋に満ちて、住吉を包み込む。 テーブルの上に置かれた灰皿と高坂と同じ銘柄の煙草の箱の景色は、いつかこの部屋で高坂と抱き合った日に見た景色だということに気が付いた瞬間───糸が、切れた。 「主任、」 あの日から初めて口に出す。声が掠れて濡れている。 頬が濡れる感触がある。 泣いてどうなる、と意識では思いつつも衝動的に込み上げたそれを止める術が見付からない。 指に煙草を挟んだまま両膝を抱えて背を丸める。 肩の震えを止めようとするも、何一つ上手くいかない。 「主任、主任、…っ、ねえ、」 鼻水まで出てきた。ずる、と啜り、それでも止まらない涙と鼻水に疲れ切った顔が汚れる。 こんな自分の姿は見せられない。それでも、見たとしたら、高坂はなんと言うだろう。 自分を庇って姿を消した。 始めたのは自分だというのに。 前の日に高坂が口にした「終わりにしよう」という言葉の意味も尋ねていない。 あの朝、掲示板の写真を見てから数分のうちに、罰を受ける覚悟を決めるべきだった。───否、高坂との関係を始めた時点で、誰かに裁かれる覚悟を決めるべきだったのか。 裁かれるのなら高坂と共に、という思いもまた自分だけの夢想で、願望に過ぎない。 自分は、好きだと思った人間の人生に介入し、蛇行させたのだ。 それは間違いなく自分だけの罪だ。 時間は、どこまで巻き戻すべきなのだろう。 無かったことになど出来る訳もないのにそんなことを考える。 倉庫で抱き合ったあの日なのか。 高坂を好きだと自覚した日なのか。 それとも 初めて高坂の身体に触れた日なのか───。 そのどれであっても巻き戻すことは叶わないのだ。 だからこそ、最終的にはたった一つの願望だけが性懲りも無く残滓のように残る。 住吉は大きく鼻を啜り、ひゅ、と息を吸った。 「ねえ、主任、」 身動ぎした瞬間に、吸われずに火が消えた煙草の灰が伸びたものがぱさりと床に落ちる。ぎゅ、と目を瞑った。 「…主任、主任…っ、…会いたい…っ、」 願いはもう叶わない。 吐き出すように声にした後は、住吉はしばらくそのまま嗚咽を噛み殺しながらベッドの足元にぐずぐずと留まり続けていた。

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