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第69話

「ただいま戻りました」 真四角に近い建物のドアを開け、短い廊下を歩いた先に事務所がある。最も奥の席に座った所長が顔を上げる様子を確かめつつ、高坂はまっすぐにその席へと足を進めた。 微かに潮の匂いを連れて帰ってきた部署の新入りを、年配の女性社員や若手の社員、それと定年間近と思しき社員らが目を細めて眺めている。都市部から一時間強ほど車を走らせた街にある支部の人員は両手で間に合う程の人数しかいない。 「やあおかえり。向こうさん、覚えてたかい?」 「ええ。始めに所長が一緒に挨拶に行ってくださったおかげです。ありがとうございます」 ぺこ、と頭を下げる姿はまるで新入社員だと所長は思う。いやいや、と恐縮して手の平を振り、壁の時計を見やった。 「少し早いけどお昼休みにしなさい。どうせなら皆も、」 高坂を見上げた後、小柄な所長は目の前のデスクを見回して告げる。各々、嬉しげな声と表情で手にしている仕事を片付け始めた。高坂もまた腕時計を見遣る。時計の針はまだ重なっていないが、有難く言葉に甘えることにした。 「ありがとうございます」 再び頭を下げて自分のデスクにつく。まだあまり物が置かれていないデスクの影にバッグを置き、中から財布と喫煙具を取り出してからその場にいる人間全てに届くように声を掛けた。 「お先に休憩入ります、」 どうぞ、と返事を受けてから部屋を出る。ぱたん、とドアが閉まる様を見届けてから、年配の女性がほう、と少女のような溜め息をこぼした。 「爽やかねえ…高坂さん、」 「ねえ!爽やかだし落ち着いてるしお仕事も出来るし…こんな田舎には勿体ないですよね」 自分の母親ほどの年齢に近い女の言葉に、若い社員が顔を上げた。この社員は、数ヶ月前にやってきた高坂を気に入り、慕っている。兄のように慕って後に着いて歩くこともあれば、部署の先輩として高坂を連れて歩くこともあるから微笑ましい。 ねえ、と相槌を打ちながら女性が所長へと顔を向けた。 「本部は随分良い人をまわしてくれましたねえ」 「そうだねえ、」 「こんな営業だけの場所じゃあ本当…勿体ないみたい」 うちは有難いけど、最後に結んだ言葉が、部屋の中の全ての人間の創意だった。 小さな支部の所長や、その社員達は高坂が本部からこの支部に回されてきた理由を尋ねなかった。 醜聞が出回ったにも関わらず、解雇にもせず、左遷するにしてもその理由までもを支部へと送り込まなかったのは本部の上層部の情けというものだろうかと今でも思うことがある。 近くの定食屋に向かう途中に小さな港がある。そこに立ち寄り、携帯灰皿を片手に海を眺めながら一服することが高坂の日課になっていた。 それでも、眼前の港の中の海を眺めていると心が落ち着くようになったのは、ここ数週間のことだ。 在宅で処分を待つ間、一人になった部屋を片付けていた。離婚の前後の諸々の決め事や雑事に追われ、処分が決まった後にはこの街の住居探しと引越しの手続きに追われ、その小さな新居の荷物も解き終え、加えてその間に前職に関する引き継ぎの書類を作成して本部にメールをする作業を終えたのが数週間前になる。 ようやく落ち着いた頃に、元の妻から様子を尋ねる連絡があったのも、情けなのか───それとも、妻が持つ罪悪感なのかはわからない。 突然の異動の理由を妻は尋ねはしなかった。 それは、高坂が妻の相手の男がどんな男であるかを詮索しなかった事への礼か何かだろうかと思う。 彼と入籍したら子供たちの養育費は要らないとまで妻は言った。それはさすがに高坂の矜恃や、罪悪感が許さずに、養育費という名目を付けなくとも、幾許かの送金はしている。元々散財するタイプではないから、自分を食わせる為の額があれば十分だ。本部にいた頃より給料が減ったこともあまり気にとめていない。───もし離婚していなければ、給料の額を気にしただろうと思い、ここに来て初めて貰った給料明細を見つつ一人苦笑した。 ここでは、あまり金を使う場所がない。 この街では、時間も何もかもがゆっくりと流れている。 煙草の煙が海と空に向かって流れていく。晴れた空の下で、仕事を終えたらしい漁師たちが車座になって談笑している様が見えた。 元々出世欲とは縁遠かった。 働き、会社に貢献する為の努力はしていた。年相応の出世はしていたものの、それは運も含まれてのことだろうと思う。ただ漠然と、高坂自身も周囲もこのままとんとんと、出世の道を歩むものだと思っていた。それが、途中で頓挫しただけのことだ。 あの写真を誰が撮り、誰があの場に貼り付けたのかなど、忙しさと時間に流されるうちにどうでも良くなった。 そもそも始めから、そんなことは考えていなかった気がする。 自分が唯一考えていたことは。 「───元気かなあ、」 自分が出社しなくなった日から、携帯電話は同じ番号からの着信を何度も受けていた。 並ぶ発信者の名前を見つめ、何度折り返して電話を掛けようとし、堪えたかはわからない。 いつしか着信は途絶えた。 移ったばかりの支部に、本部でなにかプロジェクトが動いているらしいという風の噂に近いものだけは届いてきた。 プレゼンは上手くいっただろうか。 上手くいったのなら褒めてやらなければ、と思うものの、それももう叶わないのだと気が付いた。 目に浮かぶのは最後にエレベーターホールで会った時の顔ではなく、あらゆる場所で、あらゆる場面で見せた些細な表情で、耳に蘇るのは些細な場面で自分を呼ぶ声だった。 自分がいなくなっても、彼はちゃんと働けるだろう。 自分の手はとっくに離れていたのだ。年齢もまだ若い。これからいくらでも働き、飛躍出来る。 咥え煙草で、両手をポケットに突っ込んだ。 海と、飛び交う鳥の鳴く音がする。 柔らかな潮風に前髪が揺れた。 考え込むうちに、煙草の灰がぱさりと地面に落ち、鼻から息を抜いた。 時折、無性にあの手が懐かしくなることがある。 あの手は今、別の誰かに触れているのだろうと思うと、無くした筈の焦燥感や恋慕が込み上げる。 自分はきっと、住吉を守り抜くことが出来た。 全てを手放し、空になろうとしていた自分がそれ唯一考え、願っていたことだった。 「……会いたいなあ…」 後悔は無い。 それでも穏やかな風に吹かれながら、時々無性に泣きたくなることがある。 会いたいな。ぽつ、と呟きを落としてから吸い切った煙草を灰皿に収める。肩で息をつきつつ海に背を向け、高坂はとぼとぼと歩き始めた。

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