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第71話

カラン、と音が鳴り店のドアが開いた。 木曜日の飲み屋など開けていても暇なだけだ。時間を持て余していた店主のミチルは、吹き込んでくる冷たい風に眉を顰めかけるも、とりあえず笑顔を作って顔を上げる。入店してきた人物に、ミチルは今度こそわざとらしく眉間に皺を寄せて見せた。 「あら住吉じゃない。ご無沙汰」 「…どうも、」 かつてアルバイトとしてこの男を雇っていたのは数年前のことだったか。頭の中で記憶を辿りつつ、カウンターの止まり木に腰掛ける住吉を見やる。疲れている、久方ぶりに会うミチルでも一見してわかる程に住吉はぼんやりと呆けていて、どこか上の空にも見えた。 「何飲む?」 「…水割り…薄いの、」 カウンターに肘を付き、やれやれと溜息をつく様に、以前であれば辛気臭いと悪態をつくミチルだが、今夜はやめておいた。手元から出てくる喫煙具に気が付き、手を動かしながら目を向ける。 「あら。アンタタバコ吸ったっけ?」 「んー…、最近、ていうか…半年前くらい、から」 ふうん。鼻で返事を寄越しては改めて住吉の顔を見やる。 精悍になったのか、窶れただけなのか。 そっと目を細めた。 「アンタ痩せたんじゃない?ちゃんと食べてるの?」 「…食べてる。……忙しくて…、…食べなきゃ持たない、」 相変わらず多弁な男ではない。格好を付けている、というよりも無愛想なのだ。よくこんな男を雇っていた、と思うものの、当時の住吉が若干ミチルのタイプだったという理由だけで採用を決めたことを思い出す。 他に客のいない店内に住吉の溜め息が小さく響いた。 「なに。仕事?」 水割りのグラスを差し出しながら問う。住吉が頷き、指でグラスを引き寄せる。手元にある灰皿と、側に置かれたタバコとライターが住吉を随分大人びたように見せていたが、この男はとうに大人だということも思い出した。 「部署替えかなんか?」 「いや、…違うけど、…なんか急にやること増えて…、もうすぐ大詰め、的な、」 この男はあまり喋らない。それ故に、愚痴や弱音も言わない。疲れた時に疲れたと言わないことはなんの美徳でもないとミチル個人は思うが、住吉は案の定みなまで口には出さなかった。 相変わらずぼんやりとした眼差しを視界の中に収めつつ、ミチルは緩く首を傾ける。 以前連れてきた男とはどうなったのか。 妻子のある男だと聞いていた。 最後にこの店を訪れた時は住吉と男は別々に現れ、痴話喧嘩を始めたものだから、2人きりの場所でやれという意味を込めて店から追い出した。 あれは雨降って地固まる類の、恋人同士の少し拗れた喧嘩だっただろうと、ミチルは経験は踏んでいる。 あれからあの男も住吉も顔は見せていなかったものの、それなりに上手くやっているのだろうかと思っていた。 今日、住吉の顔を見るまでは、の話だ。 会話が途切れ、住吉が不意に視線を泳がせた。 何かを言おうと口を開きかけるも、逡巡して閉ざしている。今度はミチルが深い溜息を吐き出し、両手を腰に当てた。 「…あのいい男どうしたのよ」 深堀をするつもりはない。 だが、住吉は言いたげに、尋ねてほしそうな目をしている。 この男が自分に自分自身の心境を口にする時は甘えたい時だ。───そんな所は、あのアルバイトの頃から変わっていないのか。ミチルは危うく苦笑しかけた。 「……異動、」 ミチルに内心を言い当てられたと思ったのか、住吉は驚いたように顔を上げた後、すぐにまた目を逸らしてグラスに唇を付ける。少し酒を喉に流して湿らせてから、ぼそりとした声音をカウンターの上に置いた。 「…あらぁ…、いつ、」 「…半年前、くらい」 なるほど、ミチルの中であたかもパズルのピースのように話が繋がる。 キーワードは半年前か。 半年前の別れと、それに伴う多忙とにを理由に仕事に邁進し、精悍な顔付きになり、それでもまだ落ち込んでいる。 それは随分─── 大人びて、健気だと思った。 住吉の指がタバコに伸びる。慣れた動作で喫煙を始める顔を眺め、思い出したように小皿の上にざらざらとナッツ類と個包装のチョコレートの小袋を開けて差し出した。 「ほれ。サービスしてやるから食いな」 「……お節介ジジイ」 「殺すよ」 ちらりと皿の上を見下ろした住吉が、てんこ盛りのツマミに呟く。間髪入れずミチルが人工の巨乳を揺らして凄んで見せるのものの、声に怒気はない。 迷った指がチョコレートを取り上げて包装を解く。口の中に放り込み、舐めて溶かしている。甘くなった口内を酒で流してから、住吉がミチルを見上げた。 「…ババア。…やっぱり腹減った、かも。賄い食べたい、」 まるで捨て犬のような目をする。 ミチルは、かつて学生バイトとして雇っていたこの男の親でも兄でもない。 それでも、手のかかる男の面倒を見ているという印象は───何年経っても変わらないのだ。 大人になってからの怪我は治りが遅い。 大人になってからの拗らせた恋は後々引き摺る。 いずれも定説だ。 それでも、この色恋などどうでも良いと言いたげな生意気な顔をしていた青年がここまで落ち込むか。 「…しょうがないねえ。アンタは」 柔らかい目で笑ったミチルがバックヤードへと引っ込んでいく。奥で、調理器具が鳴り始める音を聞きながら、住吉はカウンターの上に頬杖をついた。 隣に、あの人が居れば良いのにと思う。 いつまで、思えば良いんだろうとも思う。 煙草の香りは、嫌でもあの人を喚起させる。 高坂が居なくなってから、半年が経っていた。

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