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第72話
「…本部、ですか」
のんびりとした上司の机の前に呼び出されたのは帰り際のことだった。いかにも人の良さそうな上司はにこにこと悪意のない笑顔を高坂に向けている。
「うん。新商品についての説明だとか、なんだかパソコンの方にも新しいシステムを導入するだとか、そういうことまとめて説明会をやるんだって。支部の方から1人ずつで良いから出してほしいって来たんだけど、高坂くんに行って貰えないかなって」
思わず苦笑いが込み上げた。
高坂がこの地方の支部に異動になった理由を本部の人間たちは伝えていないのだろう。だから、この上司も何故高坂がここに来たのかを知らない。
知らないことも善し悪しというわけか。
どこか他人事のように思いつつ、高坂は一応困ったように指先で額の端を掻いて見せたが上司にその心中は伝わらなかったらしい。はい、と手元にあった煎餅の袋を滑らせながら緩やかに首を傾けた。
「高坂くんなら、本部の勝手もわかるだろうし。そろそろ都会が懐かしいだろう?」
こんな田舎には勿体ないね。上司は時折そんな言葉で高坂を褒めるが、高坂はそうは思ってはいない。
都会に疲れていた、という訳ではないが今振り返ってみると、自分が都会人らしく振舞っていたり、生きていたようにも思えない。
むしろこの、のんびりとした穏やかな空気は自分の性に合っているような気がする。事実上の左遷の後、会社を辞めて都会に戻る気が起こらなかったのは、この土地柄に引き止められたのだとすら思う。
「で、どう?行ってくれる?」
「はあ…。それじゃあ、…行きます」
高坂にしては歯切れ悪く答えたつもりだったが、上司は一層顔を明るくして頷き、書類の束を寄越してきた。目を通してほしいんだって、と向ける目が申し訳なさそうな色をしていて、何かと気の小さい上司の人柄を表している。
書類と、個包装の煎餅を手にデスクに戻る。時計の針は終業時刻を過ぎていて、高坂は書類をぱらぱらと捲りながら持ち帰って夕食の共にでもしてしまおうかと考える。この支部では基本的に残業が無い。説明会とやらの日程は来月になっていて、急いで読み込んだり準備をする必要は無いようだった。
不意に、新商品についてのページに目が留まった。
そこには、見覚えのある名前と、彼が懸命に打ち込んでいたプロジェクトの中にあった名称がはっきりと記されていた。
降って湧いたような仕事に邁進していた姿を思い出す。本部に唯一心残りがあるのだとしたら、彼のその仕事の集大成と、結末を傍で見られなかったことだ。
─── 彼の努力は結実した。
高坂の目が緩やかに弧を描く。
「…よく、頑張ったね」
彼の頭を撫でて褒めるようにして、指先でその文字を優しくなぞった。
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