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第8話 にーちゃんの熱

 色々考えてたら二度寝してたらしい。起きたらすっかり昼前だった。今日はにーちゃんはお昼には仕事が終わるらしいから、一緒にご飯を食べて、午後から家を見に行く事になっていた。だから、にーちゃんの為に昼食を作らないといけないのに、すっかり寝こけてた。  料理しないと……、とまだ眠い目を擦りながら立ち上がって、キッチンに向かっていると、玄関がガチャガチャいう。何だろう、にーちゃんにしては早いけど、七瀬さんかなあ……って見ていると、ドアが開いて、にーちゃんが入って来た。 「にーちゃん、おかえり……って、ど、どうしたのにーちゃん!」  にーちゃんがよろよろ壁にもたれたから、おれは驚いてすぐに駆け寄る。心なしか、顔が赤い。 「ちょっと、熱が有るかもしれないから、早めに帰らせてもらったんだ……」 「えっ! 熱!?」  その言葉におれは背筋が冷たくなった。 「けど、薬飲んだから、すぐ落ち着くと思う、昼飯は悪い、アキトだけで食べてくれるか、食欲があんまり無くて……。その後で、家、見に行こう」 「だ、ダメだよ、にーちゃん、休んで! 横になって!」 「でも、」 「お願い、にーちゃん、お願いだから……」  嫌われるかもしれないとか、そんな気持ちは何処かに吹っ飛んでしまって、おれは力いっぱいにーちゃんを抱きしめた。不安で心配でたまらなくなって、涙が出てくる。お願いにーちゃん死なないで、で頭がいっぱいになる。  見た事も無い父さんが急死したのを、おれは知っている。ちょっと熱っぽいけど、風邪だろうって言ってたらしい。一晩寝たら良くなるよ、って、それでその夜に容態が悪化してたのに気付かないまま、朝には冷たくなっちゃってたって。  それを聞いて以来、おれは怖くてたまらない。にーちゃんも同じように急に死んじゃうんじゃないかって考えると、胸が苦しくなって、涙が止まらなくなる。おれを天使と呼んで頭を撫でてくれた、あの時からおれはやっと自分を認められた。そんな人が死んじゃうなんて、生きる支えを失うようなもので、小さな頃からにーちゃんが熱を出す度にわんわん泣いて引っ付いて、家族を困らせたものだった。  何度もそれを繰り返して、いつだってにーちゃんが死ぬ事は無くて、だから少しづつ慣れてきたと思っていたけど、まだ克服出来て無いみたいだ。怖い。にーちゃんが消えてしまうのが。生きてるなら、側に居られなくてもいいけど、この世界に存在しなくなるなんて、考えるだけで、叫び出したくなるぐらい不安になる。 「……アキトのそれ、まだ治ってなかったんだな……」  にーちゃんは困ったように笑って、背中をぽんぽん叩いてくれる。そうじゃない、熱が出てるにーちゃんのほうが、おれなんかよりずっとしんどいんだから、労わられるのはおれのほうじゃない。そう思うのに、怖くてたまんなくて、にーちゃんをぎゅっと抱きしめて震えていた。 「……判ったよ、今日は大人しく寝てるから。……な、アキト、大丈夫、休んだらすぐ治るよ。だから落ち着いて。まずは横にならないと、ね?」  おれがにーちゃんを助けてあげなきゃいけないのに、背中を擦られて。こんなんじゃダメだって自分に言い聞かせて、立ち上がる。にーちゃんを寝かせてあげなきゃ。 「……あ、悪い、僕の部屋には入らないでくれるかな」  にーちゃんを支えて、部屋まで連れて行こうとしたら、そう言われた。でも、入らないとにーちゃんの看病が出来ない。そう言ったら、じゃあ悪いけどアキトのソファベッドを貸してくれないかって。 「いいけど……そんなに入られたくないの?」 「ん、別にアキトに入られたくないってわけじゃないんだ、ただちょっと……見られると恥ずかしいから」  にーちゃんはそう気まずそうに言った。おれはにーちゃんの部屋にドギツイエロビデオやエロポスターや女の子の下着が有っても、別に引いたりしないんだけど。あんなに厳重にしてるって事は、よっぽど見られたくない何かすごい物が有るのかな。ちょっと気になったけど、「判った」って極力さっぱり返事をして、にーちゃんをいつもおれが寝てるソファベッドまで連れて行く。  そっと横にしてあげて、それから服はどうしようって思った。生憎洗濯物はにーちゃんの部屋にしまわれてるみたいだったから、おれの持って来た、まだ着てない服で、ゆったりしたパーカーとスウェットを見つけたので、にーちゃんに渡す。にーちゃんは少し考えて、「あっち向いてろ」って言って着替えた。おれは素直にそっぽを向いてた。すごく気になるけど、一生懸命見るのは堪えた。  着替え終わったにーちゃんを寝かせてあげて、これ以上クヨクヨしてても仕方無いって気分を入れ替える。にーちゃんの為に何かしよう。「にーちゃん、何か食べる? おかゆとか」って尋ねたけど、「今は大丈夫だよ」といつもよりいくらか優しい返事。じゃあ、スポーツドリンクでも買って来ようかって言うと、粉末のが常備してあるから、それを水に溶かしてくれたらいいよって。  早速スポーツドリンクを作る事にした。何処に何がしまって有るか判らないから、色々探していると時間がかかってしまって、出来たスポーツドリンクを持って行く頃には、にーちゃんは布団の中で静かに眠っていた。  心配かけないように平気だって言ってたけど、本当はしんどかったのかもしれない。不安で胸が締め付けられるのを、大丈夫、大丈夫って自分に言い聞かせながら、とりあえずスポーツドリンクをテーブルに置いて、にーちゃんの傍に大人しく座ってた。  たぶんにーちゃんに嫌われてはいないんじゃないかな、とちょっと思う。嫌いな奴の傍では、どんなに辛くたって、こんなに早く寝れたりするもんか。部屋に入れてくれないのは、にーちゃんにはとっても恥ずかしいプライベートがあるだけで(なんだかこの表現はまずいかなあ)、おれだけ締め出されてるわけじゃないのかもしれない 。  でもおれは、にーちゃんの事を全然知らないままだ。  どんな本が好きで、どんな音楽を聞いて、どんなTVを見て、どんな子を好きになるのか。いっぱい聞きたい。でも思えば、にーちゃんはおれのつまらない話をうんうん聞いてくれるばっかりで、にーちゃんの話は、あんまりしてくれなかった。  じっとにーちゃんを見ていると、また少し不安になってきた。落ち着かない時は、何かをするに限る。もし万が一にも、にーちゃんの容態が変わってしまった時の為に、近くの病院でも教えてもらったほうがいいかもしれない。それに部屋の中で何かして、にーちゃんを起こしても悪いから、おれは少し隣の七瀬さんの所へ行く事にした。  チャイムを鳴らしてしばらくすると、七瀬さんは平日の昼間なのに、部屋から顔を出した。黒い寝間着みたいなのを着ていて、随分眠そうだったから、寝てたのかもしれない。起こしたんなら悪いなあ。  とりあえず七瀬さんに事情を説明すると、そりゃ心配だな、って言って、部屋に戻り、栄養ドリンクみたいなビンを三本ほど渡してくれた。 「風邪は引き始めが肝心ってな。リクに渡してやんな。それと、アキト君も移されないように気を付けるんだぜ」 「おれは平気です、昔から丈夫ですから……」 「ならいいけど、まああんまりくっつきすぎないほうがいい、って事さ。リクも迷惑かけてるって思っちまうかもしれないしな」  迷惑だなんて思ったりしないけどなあ。そう考えたけど、こういうのは本人の気持ちなんだろう。にーちゃんに気を遣わせちゃ、本末転倒だ。「わかりました」って素直に返事をすると七瀬さんは笑った。 「まぁ、あんまり気にすんなよ。リクはちと体調を崩しやすい体質みたいだからな」  そういえば、子供の頃からおれよりずっと風邪は引きやすかった。バカは云々って話と関係有るのかは知らないけど、それでにーちゃんが心配でしょっちゅう泣いてたんだ。今でも風邪を引きやすいって聞いたら、また心配になってきた。 「おれとリクが仲良くなったのも、それがきっかけでよ」 「そうなんですか?」 「都会じゃなかなか、ご近所さんっていっても、仲良くはなりにくいからな。いつだったか、リクが廊下でしゃがみ込んでてよ。熱出して、自分で色々買いに行ったはいいが、ここまで戻って力尽きちまってたんだな。休んでるとこにたまたま通りかかって、事情を聞いて部屋に運び込んだのがきっかけなんだ」  なるほど、それから仲良くなったのか、と思うと同時に、もし七瀬さんみたいな親切な人がお隣じゃなかったら、にーちゃんは今までどうしてたんだろうと思った。最初の冗談のせいで第一印象は悪かったけど、思ったより七瀬さんはいい人っぽい。まだろくに知らないから、ぽいだけだけど。 「まあ何か困ったことがあったらいつでも言ってきな。今日は俺、休みだから一日中居るし、大体もう一人も居る事が多いしな」  七瀬さんの家は一人暮らしじゃないらしい。判りました、その時はよろしくお願いします、って頭を下げると、もっとフランクな感じでもいいんだぜ、って七瀬さんは笑った。  結局、にーちゃんの部屋に戻って、起こさないように静かにして過ごしたけど、にーちゃんは特に問題無く眠っていた。少しの間起きた時には、七瀬さんからもらった栄養ドリンクを飲んで、後でお礼を言わないとって言い残して、また眠った。おれはただただ、早く治りますようにって祈っていた。 

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