9 / 13
第9話 にーちゃんの迷惑
翌朝にはにーちゃんはすっかり良くなっていた。早めに休んだし、アキトが面倒を見てくれたからだよ、とにーちゃんは言ってくれた。本当に大丈夫? って聞いても、大丈夫、って返されるだけだった。
今日は夕方から雨だってTVの天気予報で言ってた。気温は少し暖かいぐらいだったけど、念の為に二人して撥水加工のジャケットを羽織り、傘を持って物件探しに出かける事になった。にーちゃんはそれでも風邪のぶり返しが心配らしくて、紺のセーターに黒いマフラーを巻いたりしてる。おれはというと、英語の書かれた黒い長袖Tシャツにスキニーだったから、にーちゃんはしばらくおれを見て、「ロックシンガーみたいだな」ってポツリと言った。金髪なせいかな。
雨が降ったら嫌なので、朝ご飯も軽く食べて早めに出かけた。ところが、家探しもなかなか難しいみたいだ。駅に近いのは日当たりが悪そうだし、広くて綺麗なとこだと思ったら、スーパーが遠い。コンビニの近くはなんだか小汚いし、なかなかここに決めた! っていう良い所は見つからない。
にーちゃんもまだ本調子じゃないらしくて、時々熱い缶コーヒーなんか飲んで休んでいた。にーちゃんは普通のコーヒーで、おれは甘いカフェオレで、アキトはまだ子供だな、ってにーちゃんは笑った。でも嫌味なトコは少しも無くて、なんだかとっても嬉しそうだったから、悪い気はしなかった。
空はどんよりとした鉛色で、風も生温かく湿っている。夕方まで雨は待ってくれそうになかった。もうここに決めちゃおうか、って急ぐと、にーちゃんは「いやここはセキュリティが甘そうだ」とか「ここはあんまり治安の良い話を聞かない」とか色々言ってなかなかOKを出さなかった。そう考えると、にーちゃんの家は結構良い立地だった。スーパーも近いし、駅も少し歩けば有る。日当たりも良好。ただ、おれがいきなり玄関におしかけられるんだから、セキュリティに関しては疑問だ。
それにこうして賃貸情報を見てると判るけど、ワンルームはともかく、2LDKの家はちょっと高い。にーちゃんの部屋は入った事が無いからどうなってるか判らないけど、少なくともリビングにもそんなに物は多くないし、残る一部屋も物置にしてるとはいえ、いっぱいって程でもないし、ワンルームでも十分なんじゃないかって思う。なんでにーちゃんはあの家に住んでるんだろう。よく判らなかった。
結局色々見たけど、良い家は見つからなかったし、予報と外れて雨は昼過ぎには降り始めてしまった。仕方無くにーちゃんとハンバーガーのセットを持ち帰りして、帰宅する事になった。
にーちゃんのアパートの廊下を歩いていると、にーちゃんの部屋の近くで、妙に背の高い女の人の背中が見えた。掃除をしてるみたいだった。もしかして、あのメモの人かなって思いながら見てると、にーちゃんが急に立ち止まった。だからおれはにーちゃんの背中に軽くぶつかってしまって、「あっ悪い」とか「にーちゃんごめん」とか言ってると、その女の人が振り返った。
その人は、そう、スラッとしたスキニージーンズに、ワインレッドのVネックのセーターを着ていたし、赤っぽい茶色のお団子ヘアをしていたし、化粧もしていたし、つけまつげも付けていたけど、明らかに、男の人だった。
「あっら、リクちゃん、風邪引いたって聞いたけど、大丈夫ぅ?」
そのおねーさん(?)は、とても明るく、女らしい仕草で、でも明らかに男の声で。厚いつけまつげで垂れ目っぽくて、爪もピカピカに研かれてて、だけどどう見ても男の人だった。その人はにーちゃんに駆け寄るとハグをする。文字通り、ハッグだ。力強い。にーちゃんは苦しげに、「ハイ……」と小さく返事をした。
「アラ、まだ元気ないじゃない、ダメよぉ、病み上がりでこんな雨の日に外出たりしちゃあ。若いからって何でも気合いじゃどうにかならないんだからね」
ハグから解放されたと思ったら、軽く背中を叩かれてよろめいている。そんな光景を茫然と見ていたら、オネーサン? と目が合った。
「あら? あらあらあら、美人さんねえ、リクちゃんの彼氏?」
興味津々、って顔で近付いて来る。思わず身構えていると、にーちゃんが「弟です」ときっぱり即答していた。「ああ、この子がウワサの弟君!」と嬉しそうにオネーサンは言って、おれの手を握ってきた。温かかったし、スベスベだし、指も長くて綺麗だったけど、骨格が男だった。
「アタシ、鈴音っていうのよぉ。よろしくねぇ」
「は、はぁ、えっと、小鳥遊アキトです……」
「アキトちゃん! まぁ、垂れ目がとってもキュートね、それに髪もサラサラの金髪で綺麗ねぇー、食べちゃいたいぐらい!」
鈴音さんがそう言うので、おれも流石に身の危険を感じたけど、にーちゃんが「それぐらいにしておいて下さい」って困ったように言うと、「うふふ、ごめんなさいねぇ」と鈴音さんはクスクス笑った。どうやら、からかわれたらしい。たぶん。
「若くて可愛い子がいるんだもの、つい、ね?」
「ウチの弟はまだ若いんだから、よして下さいよ」
「あら、リクちゃんだってまだまだ若いわよぉ。それに大丈夫、心に決めた人以外には手を出さない主義なの。そうそう、ちょっと掃除しておいたのよ、このところ枯れ葉がね」
そう言って鈴音さんが廊下の先を指す。見ると、大きな紅葉した木が見えて、どうやらその葉が風で廊下にも吹き込んできてるみたいだった。鈴音さんが最初にいた辺りに、ちりとりとほうきが置いてあって、そこに少しばかり枯れ葉が追いやられていた。
「うちの前もしてくれたんですか、ありがとうございます」
「いいのよぉ、リクちゃん一人で大変そうだもの。あ、アタシは夕飯の煮込みがあるから戻らなくちゃ。またね、リクちゃん、アキトちゃん」
鈴音さんはそう言って一つウィンクすると、そのままにーちゃんの隣の部屋に、ちりとりとほうきを持って入ってしまった。あれ、隣って七瀬さんが住んでたんじゃなかったっけ、と思う。にーちゃんの部屋は二階の突き当たりだから、隣は一軒だけだ。不思議に思ってにーちゃんを見たけど、にーちゃんは黙って先に行ってしまった。
家に入って、玄関を閉めて、荷物を置いて。それから、にーちゃんがポツリと、「あの人、七瀬さんの恋人」と呟いた。
「……えっ!?」
「……だから、僕は七瀬さんと恋人じゃない」
いつか言ってた七瀬さんの冗談の事を言ってるらしい。そうか、なら安心、とか考える前に、あの人ホモだったの!? って口に出していた。
「ニューハーフと恋愛するのがホモなら、ホモなんじゃないか」
「だってあの人、明らかに、手入れはしてるけど、綺麗だけど、ちゃんとしてるけど、男だったよ!?」
「ニューハーフにも色々有るんだろ、知らないけど」
にーちゃんはそれだけぶっきらぼうに答えて、ゴソゴソと買って帰ったハンバーガーの類を電子レンジに放りこみ始めた。この話は早々に打ち切りたいみたいだけど、おれはそれどころじゃない。
「それで、その、にーちゃんはどう思うの?」
「どう思うって、何を」
「だって、隣にホモが住んでるんだよ」
「別に僕には関係無いよ、誰が誰と愛し合っていようと、幸せならそれでいいんじゃないか」
「でも、」
「それともアキトは、”あんな事”してきたクセに、ホモが気持ち悪いって言うのか?」
その言葉はトゲを含んでて、何故だかおれはにーちゃんを不機嫌にさせてしまったようだった。「そんなこと言ってない」って慌てて言ったけど、「世話になってる人なんだ、態度には出すなよ」ってすっかりおれがホモを嫌ってると勘違いされてる。
おれ自体がたぶんホモの走りみたいなもんなのに、別にどうとか思わない。でもホモが決して全人類の中で多いものだと思ってないから、他にもいるって事にビックリしただけだ。でもそれを説明する事も出来ない、だってホモの弟を家に入れてるって思ったらにーちゃんがどう思うか判らない。
「にーちゃん、誤解だよ、俺は別に、ホモの事どうとも思ってないよ」
「じゃあなんであんな事聞いた、あんな事した」
それは、と答えかけて言葉に詰まる。にーちゃんが好きだから、なんて言っていい雰囲気でもない。とにかくにーちゃんは機嫌が悪くなっているし、どうしたらいいんだろう。にーちゃんがこんなに不機嫌になったのを初めて見たから、おれも動揺していた。やっぱりにーちゃんにとってあの事はそんなに嫌だったのかな。
どうにもしようがなくて、ぐるぐる色々考えてしまって、それ以上何も言えない。困っていると、にーちゃんが溜息を吐く。
「アキトがどう思おうと勝手だけど、僕に迷惑かけるのは止めてくれ」
「だから、おれはそんな……」
「いつもそうだ、アキトもアキトの母さんも、僕をいつも困らせてばっかりで……」
その言葉はポロッと出た本音のようなものだった。それを聞いて、俺は背筋が冷めてしまった。
にーちゃんはいつもおれや、おれの母さんの事で、困ってたの?
にーちゃんはハッとしたように、「あ、いや」って首を振ったけど、もう手遅れだ。
「……おれと、かーさん、にーちゃんを困らせてばっかりだった?」
「アキト、」
「いつも甘えて迷惑だった? にーちゃんに優しくさせちゃった? にーちゃんに無理させちゃってた?」
「アキト、聞いてくれ」
「ここに来たのも迷惑だった? にーちゃんにひっついてたのも全部?」
「違う、アキト、僕は、」
「おれがにーちゃんの家族になったのも、全部、迷惑だった?」
本当はずっと気になってたんだ。にーちゃんが、”アキトの母さん”って言うのが。ずっとずっと悲しそうだったのが。時々泣いてたのが。それを慰めて、癒して、笑ってほしいってずっと思ってた。
でも、そんな辛い顔をさせてたのが、おれ自身だったら、って、たぶん、心のどこかで不安に思ってたんだ。
「――っ、アキト!」
気付いたら部屋を飛び出してた。
大好きなにーちゃんをずっと困らせてた、ずっと迷惑をかけてた、無理させてた。そう考えたら胸が苦しくて、消えてなくなりたい気分だった。嫌われてたらどうしようなんて、馬鹿らしい。とっくの昔から、嫌がられてたんだと思うと、悲しくて、辛くて涙が込み上げてきた。自分が傷付いたのもあるけど、何より、にーちゃんを苦しめたのが辛い。大好きなにーちゃんに、嫌な思いをさせたのが、自分自身なのが。
雨の中、濡れネズミになりながら、何処をどう歩いたんだか。撥水コートももう用をなしてない。これはクリーニングだなあ、なんて少し考えながら、トボトボ歩いて、最終的に、前に行った公園に辿り着いた。小さな木造りの屋根付きテーブルベンチがあったので、そこに入って、机に突っ伏して泣いた。
こんな雨でなければ親子連れが楽しくおやつでも食べてそうな明るい公園なのに、強めの雨でイチョウもくすんで土で汚れているし、人影もない。だからわんわん泣いてしまった。雨音で泣き声もかき消されて、おれの悲しみも一緒に消えればいいと思った。
にーちゃんの笑顔が好きだった。にーちゃんがおれの事を嫌ってないって確認出来たから。にーちゃんが笑ってくれれば、それはおれの事を迷惑がってない証拠だった。にーちゃんはいつだって優しくしてくれた。
にーちゃんはアキトって名前を呼んで微笑んでくれた。にーちゃんはおれの髪が綺麗だって、天使みたいだって、おれを認めてくれた初めての他人だった。だから、おれにとってにーちゃんは、自分が存在してもいい証拠みたいなものだったんだ、たぶん。だから確認しなきゃいけなかった。にーちゃんに愛されてなきゃいけなかった。
でもそうやってにーちゃんに無理ばかりさせてたんだ。そういう不安はずっとあった。本当は辛いことがあるんじゃないかって思っても聞けなかった。それがおれの事だったら怖いから。きっとそうだったんだ。
おれはにーちゃんの事が好きだったけど、きっと本当に好きなんだけど、今でも抱きしめたいし、今までごめんなさいって言いたいけど、だけど、怖くて辛くてたまんなくて、今は動きたくなかった。
ともだちにシェアしよう!