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第10話 にーちゃんの秘密
しばらく泣いて、少し落ち着いた頃だった。
「あぁ、やっぱりアキト君だ。何してるんだよ、ビショビショじゃねえか」
声をかけられてビクッと顔を上げると、側には畳んだビニール傘を持った、七瀬さんが立っていた。前に見た時のだらしない格好じゃなくて、しゃきっとしたグレーのスーツに身を包んでる。髪もワックスで固めていて、サラリーマン、って感じだった。
「……ホモの……七瀬さん……」
「なんだよ、出会い頭にホモって……あ、鈴音に会ったのか? まぁホモなのは認めざるを得ねえけど、俺は別に男しか抱けないわけじゃねえからな。アイツとは色々あって付き合ってるけど」
どっこいせ、と声を出して、七瀬さんが隣に腰掛けてくる。それをおれはぼんやり見ていた。
「どうした、何か有ったのか? こんな雨の中、色男が一人で泣いてたりしたら、それこそ鈴音みてえな奴がほっとかねえぞ」
「……」
「……リクと何か有ったか」
そう聞かれて、おれは素直にコクンと頷いた。
「……に、にーちゃんに、嫌われてた、みたいで」
泣いてたせいで、喉が変な感じで上手く喋れない。少し震えてる声が恥ずかしかった。七瀬さんは「リクが? まさか」と怪訝な顔をした。
「あのブラコンがそんな簡単にお前さんの事嫌いになったりするハズないと思うぜ、何かの間違いじゃないか?」
「ぶ、ブラコン……?」
「アイツがおれに話す世間話の8割は、かわいい弟の話だぞ。もちろん良い意味で言ってるからな?」
「え……で、でも、にーちゃんが、……迷惑かけるなって、おれが、困らせてばっかりだって……」
「……というかだな、お前さんまさかそれだけで、自分が嫌われたと思ってんのか?」
「そ、それだけ……だけ、ど……」
そう言うと、七瀬さんはそれはそれはでっかい溜息を吐いて、頭を抱えた。
「兄も相当めんどくせえが、弟もとは……」
「え……」
にーちゃんが、めんどくさい? 七瀬さんが何を言ってるのかよく判らなくて、困惑していると、彼はまた呆れたような顔でおれを見ていた。
「アキト君、あのな、よく考えてみてほしい。お前は好きな人に困らされた事は無いのか」
「好きな人……」
「家族、友人、何でもいい、ペットでも。とにかく、嫌いじゃない相手から一度だって「困ったな」って思わされた事は無いのか?」
「それは……」
友達にドタキャンされた事もある、昔飼ってたハムスターは脱走したし、父さんは進学の事で、おれの希望と違う学科に行った方がいいとか言ってきたな……と考える。
「で、困ったな、って思っても嫌いになったわけじゃないってのは判るだろ? 確かに、しょうがないなあって思うかもしれないが、だからって好きじゃなくなるわけじゃないだろ」
「……う、ん……」
「大体、嫌いな弟だったら、俺は部屋にも入れない。うっせえ死ね、帰れって言って追い返して終わりだ。それでもウダウダ言うようなら金でも放り投げてホテル行けって言う。それでもダメなら警察呼ぶ」
「……」
「だから心配すんな。大体お前ら兄弟は、下らねえ事を考え過ぎなんだよ、全く……」
七瀬さんはそれは大きな溜息を吐いて、「そんなずぶ濡れになって泣くような事じゃねえんだよ、ホントに」とテーブルに片肘をついて、手に顎を乗せる。
「……なんつーか、俺から色々言うのもなんだから、後でお前らで話し合ったほうがいいんだけどよ。とりあえず俺から言える事は言っておくが、お前さんのお兄さんはなあ、やたらアキトはアキトはって弟の自慢話はするし、実家から送られてくる写真は見せびらかしてくるし、なんやかんや弱音吐いたり落ち込んだり、でもでもだってを繰り返すめんどくせえブラコンなんだぜ、そんな奴が家に弟が来て嫌がってるわけねえだろ、むしろ大歓迎過ぎてアイツも頭おかしくなってんだよ」
「……へ……」
いっぺんに色々言われて、わけが判らない。にーちゃんがブラコンなんて聞いた事もない。おれの話を他人にしてるなんて知らない、実家からたまに仕送りとか荷物とかが送られてたのは知ってるけど、写真も送られてたのは知らない。それににーちゃんが弱音を吐いたりするとか、初めて聞く。
七瀬さんには話してたんだ、と一瞬寂しい気持ちになったりもするけど、そんなのはかき消されて、とにかく、にーちゃんがすごいブラコンだっていうのが衝撃だった。思わず「ホントに?」って漏らすと、「ホントだよ」と七瀬さんは笑った。
「だから、お前ら同士でちゃんと話しろ。お前さんだって言ってない事があるんだろ、アイツにも有る、だからお互い気を遣ったつもりでギクシャクしてんだ。それで仲違いで俺が弟と兄の双方の泣き事を聞くなんて、もうめんどくせえからしたくねえ。一回ぐらいぶつけあったって良いんだよ、それで壊れる仲なら、そもそもその程度のもんだって話だ。そんな事より、あーでもねーこーでもねーってグジグジ悩んで関係が悪化するほうがよっぽど悲劇だってんだ」
な、悪い事は言わねえから、お前さん達は一回、思ってる事を言い合った方が良いって。ホラ、迷惑に思ってて嫌いなら、どうしてあんなずぶ濡れになってまで弟を探しに来るってんだ、アイツ、病み上がりなんだろ?
そう言われて顔を上げたら、にーちゃんが傘も差さずに公園を走って来ていた。
「に、にーちゃん!」
おれも思わず飛び出して、にーちゃんに大慌てで駆け寄った。そうしてから、おれだってずぶ濡れで、傘も持ってなくて、しかも家を飛び出して来たんだって思い出して、躊躇した。けど、そんなおれににーちゃんが抱きついてきて、おれはただ困惑して硬直するしかなかった。
「……っ、は、アキトの、バカ……っ」
にーちゃんは肩で呼吸しながら、ぎゅっと抱きついて来る。もしかしたら、子供の頃みたいに、抱き締めようとしてるのかもしれない。もうおれのほうが大きいから、こうなってしまってるだけで。冬の近い雨は冷たくて、にーちゃんの風邪がぶり返さないか心配になった。にーちゃん、もう逃げないから、って言うと、ようやく放してくれる。にーちゃんは、雨のせいだけじゃなくて、たぶん、涙を浮かべていた。
「……心配したんだ」
にーちゃんはそれだけ言って、また黙ってしまった。言葉を選んでるのかもしれない、さっき誤解が生じてしまったから。とにかくおれが逃げ出すのが心配なのか、おれの服の袖を掴んだまま、しばらく俯いて何も言わなかった。
そこに七瀬さんが、ビニール傘を差して悠々と歩いて来る。
「おう、兄弟お揃いで不器用な奴らだぜ、全く。さっさと家に帰って風呂にでも入りな、それで話でもしろよな、お互い、いい機会だろ。これ以上すれ違う前にどうにかしろってんだ。これやるから」
七瀬さんはそう言ってビニール傘を差し出してきた。でも、と言っても、「リクが心配なんだよ」とそれだけ返されて、おれもそれは思ったから、おずおず受け取った。七瀬さんはそれで小走りに先にアパートの方へ帰って行った。スーツなのに濡れて大丈夫なのか、それであの鈴音さんに怒られたりしないのか、ちょっと思った。
傘をにーちゃんが濡れないように傾けてみたけど、お互いもう随分濡れてて寒い。にーちゃんが俯いたまま何も言わないから、「にーちゃん」って声をかけると、ようやく顔を見上げてくれた。不安そうな顔をしてた。
「にーちゃん、ごめん、心配かけて……もう逃げないから、……帰ろ、にーちゃんの風邪がぶり返したら、大変だもん……」
そう言うと、にーちゃんは少しして、うん、って、なんだか子供みたいに、頷いてくれた。
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