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第11話 にーちゃんの孤独
家に戻ったらすぐ、にーちゃんにお風呂へ入ってもらった。アキトが先に、って言ってたけど、にーちゃんは病み上がりなんだから! って言って譲らなかったら、諦めて入ってくれた。押し問答してるうちに、お互い風邪をひいても仕方ないと思ってくれたんだろう。にーちゃんが入ってる間に、お湯を沸かして、ポタージュを作っておいた。にーちゃんが風呂から出ると入れ替わりにおれも入って、出たら、にーちゃんはおれの分のポタージュを作って、リビングに座り込んで待ってくれていた。
二人して、半乾きの髪のまま、リビングのソファにもたれて、スープを飲みながら、しばらく黙ってた。時計の針の音や、窓の外の雨の音や、車の走る音、それに、自分の鼓動までなんだか大きく聞こえる。どうにも落ち着かなくて、でもどうしていいか判らなくて、ただポタージュに浮いてるクルトンを見てた。
しばらくするとポタージュも飲み終わってしまって、テーブルにカップを置いて、二人してまた黙ってしまった。ちらっとにーちゃんを見ると、にーちゃんは俯いてる。さっき言った事であんな感じになったから、言い出しにくいのかもしれない。でもおれも言い出しにくい。もじもじ指を絡めて、ちょっと気持ちを整理してから、「にーちゃん」って切り出す。
「七瀬さんが、おれたち、話し合ったほうがいいって」
「……うん」
「……お互い隠してる事、言った方がいいって」
「うん……」
「……にーちゃんは、おれに隠してる事、あるの?」
「……」
にーちゃんはしばらく黙ってた。にーちゃんとこれからどういう話をするんだろうと思うとドキドキしてきて、たまらない。のに、にーちゃんは何も言わないから、指をもじもじさせて待つしかなかった。
雨の音はザァザァ言ってるし、時計も変わらずカチコチいってるはずなのに、おれの心臓の音ばっかり大きく聞こえる。それにすごく寒い。暖房は入ってるから、室温のせいじゃなくて、緊張してるからだと思う。首筋とか背筋とか、頭が冷えて、たぶん立ってたら身体も震えてるんじゃないかなと思うぐらいだった。
「……母さんが死んだ時、僕は六歳で、小学一年生だった」
にーちゃんは、ポツリとそう切り出した。見ると、にーちゃんは子供みたいに膝を抱えて、俯いていた。
「母さんの事、あんまりは覚えてない。まだ小さかったから、断片的なんだけどね。手を繋いでくれた。髪の短い、明るい人だった。子供みたいに、僕と遊んでくれたよ、友達みたいにさ。どんぐりを宝石みたいに大事に集めて部屋に飾ったり、……イチョウの葉っぱで絵を作ったりさ、子供みたいな人だった。僕に合わせてくれてたのかもしれないけどね」
にーちゃんは寂しげに笑った。
「その日は下らない事でケンカしたんだ、なんだったかも覚えてない。朝家を出る時に、僕は母さんなんか大っ嫌いだって言って小学校に行ったんだ。学校に着いたらそんな事も忘れて普通に授業を受けてたと思う、でも先生に呼ばれて、家に帰るように言われて、父さんが車で迎えに来ていて、母さんが病院で眠ったままになってて、父さんは車にはねられたんだって言ってたけど、僕はまだ小さくて、訳も判んなくて、でも怖い事が起こってる事だけは判って、わけもわからず泣いたよ。あんなに明るくて優しかった母さんが、こんな小さなツボに入っちゃった時も、本当にショックだったんだと思う、……思う。何しろ、昔の事だし、僕もあんまり覚えていたくなかったらしくて、ぼんやりしてるんだけど……」
「……うん」
「そんな昔の事なのに、それ以外の母さんの事なんて殆ど覚えてないのに、……どうしても、全部は忘れてなかった」
だから、アキトとアキトの母さんが家に来た時、ちょっと複雑だった。にーちゃんはそこで少しの間黙った。にーちゃんは床を見ている。その姿は昔見た、夜中に一人で泣いてるにーちゃんに、よく似ていた。
「……嫌、だった?」
黙ってしまったので、そう聞いてみると、にーちゃんは小さく首を振った。
「だた嫌、っていうのとは違うんだ。アキトの母さんはすごく優しい良い人だったし、父さんも愛してるのが子供心にも判って、ああ新しい家族になるんだなって思ったよ、それが嫌だとは思わなかった。……でも、母さんじゃないんだ。ふわふわのロングヘアも、スカートを履いた姿も、淑やかな喋り方も、リクって呼ぶ声も、母さんとは違うんだ」
「にーちゃん……」
「母さんって呼んだし、実際すごく良い人だったと思う、連れ子の僕をアキトと同じように愛してくれたと思うし判るよ、それが世間的に見てどれだけすごい事か、判ってる。……判ってるんだ、とても良い人だってね、……でも、でもどうしても、僕の母さんじゃなかった」
こんなに良い人を、母さんだと思って、心から慕う事が出来ない自分は、なんて嫌な子供なんだろうって、悪魔みたいだって、ずっと思ってた。僕は僕自身が許せなかったんだ、大切にされてるのに、応える事が出来ない自分が、母さんの息子になれない自分が……。
にーちゃんは泣き出しそうな切ない声でそう吐き出した。おれは何から言っていいか判らなくて、でもとにかく、にーちゃんは悪くないって思って、それを伝えたい一心で、にーちゃんに向き直った。
「にーちゃん、その、自分を責めないで。だって……だっておれの母さんは、確かに、にーちゃんの母さんじゃない。でも……でも母親だって思えなくても、にーちゃんはおれの母さんの事、嫌わないでくれたんでしょ? その、血の繋がってない家族に、子供が心を許すのも、難しいって聞くよ、おれはまだ小さくて訳判ってなかったから、父さんの事も抵抗なかったけど、にーちゃんはもう判る歳だったのに、受け入れてくれてたんでしょ、それだけで十分だよ、にーちゃんが負い目に思う事なんて……」
「でも、でも僕は、あの人の気持ちに何も応えられてない、あの人の子供になれない、あんなに愛されてたのに、愛を返せない、」
「いいんだよ、にーちゃん、そうやって悩むほど母さんの事真剣に考えてくれてるなら、もうそれで充分なんだよ、だから自分を追い詰めたりしないで……!」
お願いにーちゃん、溜め込まないで、自分のせいにしないで、大丈夫だよ、そんな風に真面目に考えてくれるにーちゃんが悪魔なわけないよ、優しいいい子だよ、だからお願い、自分の気持ちを否定しないであげて。
ぎゅっ、と抱きしめてみた。嫌がられるかと思ったけど、にーちゃんは腕の中でじっとしてる。あの時は手が届かなかったけど、今はもうおれの方が身体が大きくて、抱き締める事が出来たから、昔にーちゃんがおれにしてくれたみたいに、背中や後頭部をぽんぽん優しく叩いてみる。どうにかしてにーちゃんの心を癒してあげたいのは、今でも変わらない。にーちゃんを苦しめていたのが、おれとおれの母さんだったのは辛いけど、でもきっとにーちゃんが苦しんでるのはそれじゃない。にーちゃん自身を見て、苦しんでるんだ。
「……でも僕は、アキト、あの人の事を嫌いなんかじゃない、むしろ好意を持ってるんだ、だけど、」
「それで良いんだよ、にーちゃん。だっておれも逆の立場なら思う所あったはずだし、なのに好きでいてくれるだけで十分だよ」
「……でも」
七瀬さんは、でもでもだっての多いやつだって、にーちゃんの事を言っていたのが、なんとなく判った気がした。
「……それで、本当にいいのか、……僕は、僕は愛する父さんが愛している人を、母親だと思ってあげられない悪い子で、だから、精一杯良い子になろうとしたんだ! 我儘も言わなかった、言う事は何でも聞いたし、悪い事なんてしなかった、でも、でもダメなんだ、どうしても、自分が許せなくて……」
「にーちゃん……」
十数年、にーちゃんはこうして一人で我慢してきたのか、そのいい子を演じるために、おれもずいぶんにーちゃんに辛い思いをさせたんだろうか、理想の兄であろうと、無理をさせたんだろうか。にーちゃんの本当の気持ちを、隠させてしまったんだろうか。
「にーちゃん、ずっと一人で辛かったんだね……」
ぽつり、ともれた本音が、にーちゃんに届いたのかもしれない。にーちゃんは顔を上げて、おれの顔を見ると、目に涙をいっぱい溜めて今にも泣きそうな顔をした。そんな表情を見るのは初めてで、切なくて、おれも辛くなって、力いっぱいぎゅうぎゅう抱きしめた。
にーちゃんは頑張ったんだね、すごくいい子だよ、だからもう一人で黙って苦しんだりしないで、にーちゃんの気持ちは大事だよ、にーちゃんがどんなふうに思っていても、誰もにーちゃんを嫌いになんてならないよ。ほら、おれもう大きくなったから、にーちゃんをぎゅーする側にもなれるよ、甘えてもいいんだよ。ずっと一人で我慢してたんだね、にーちゃん。
そう言ってあげたら、にーちゃんはおれに抱かれたまま、泣き始めた。
子供みたいに肩を震わせて泣いてた。僕はずっと隠してた、黙ってた、そうやって我慢してたらいつか自分もいい子になれるって信じて、でもダメだったって、にーちゃんは途切れ途切れに言う。だから何度だってにーちゃんの背中を優しく撫でて、抱き締めた。にーちゃんを少しでも癒してあげたかった。うんと甘えさせてあげたかった。
それからどれぐらい経ったろう。ようやくにーちゃんの嗚咽が落ち着いて、少し動いたから手を離してみたら、にーちゃんは泣き顔を隠すみたいに俯いて、顔を服で擦ってた。そういう子供っぽい仕草をするにーちゃんも初めて見る。にーちゃんはぐすぐす言っていて、完全に泣きやんだわけでもないみたいだったけど、様子をうかがっていると、
「……もう一つ、ずっと秘密にしてた事が、有る」
にーちゃんは小さな掠れ声でそう言った。なあに、にーちゃんにたとえ女装趣味があったとしたっておれは受け入れるよ、って言うのだけはぐっと堪えた。「それは何?」と尋ねてみると、にーちゃんは話を振った割に躊躇しているのか、しばらく何も言わずに、指をもじもじと絡めたり解いたりしていた。
「にーちゃん?」
促してみる。今までずっと隠していたから、こんなに苦しんで辛い思いをしていたんだもの、言っていいんだよ、大丈夫だよって言ってあげると、にーちゃんはチラッとおれを見て、また俯いた。
「……アキトを初めて見た時、この子は天使なんじゃないかって思った」
「……へ」
「ふわふわの金髪が陽の光でキラキラしていてね……、弟が出来るって聞いても、正直言って不安でいっぱいだったんだ。小さい子と遊ぶなんてした事無かったし、一緒に上手くやっていけるのかって考えると、怖かった。……でも、アキトに出会って、そんなのは何処かへ吹っ飛んだよ。にーちゃん、って舌っ足らずに呼んで、にっこり笑ってくれるのが、愛らしくてね。可愛くてたまらなくて、僕はこの子を大事にしようって、思ったんだ……」
「う、……う、ん……」
改めてそんな風に言われるのは初めてで、俺はなんだか恥ずかしくて顔が熱くなってしまった。にーちゃんがそんな風に思ってくれてたのはとっても嬉しいけど、なんだか照れくさくってたまらない。おれまで俯いて、手をもじもじしてしまう。
「……大事にしようって、いいお兄ちゃんになろうって、思ったんだ、なのに……」
「……なのに……?」
にーちゃんは、「なのに、なのに、ごめんな……」って小声で言う。さっきの感じで、おれの事は結局弟とは思えなかったとか、そういう事なのかなって不安になって、別にそういう事ならそれでいいから、自分を責めちゃダメだよ、悲しいけど、って思いながら、でも続きが気になって、にーちゃんどうしたの、なのになんなの、って詰め寄ったら、にーちゃんはようやく、すごく小さな声で、
「……好きになっちゃったんだ……アキトの事を……」
って、言った。
にーちゃんは、おれを弟として見れてなかった。違う意味で。
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