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「神谷先生、警戒心が足りませんよ。ああ、違うか、自分の色気に対して自覚が足りないのかな。僕が神谷先生を痴漢から助けたからいい子だと思いました? 確かに先生の前ではいい子ちゃんですし、信頼できる優等生ポジションを確立していますよ。だけど、神谷先生を見ていると意地悪したくなっちゃうんですよね、なんでだろう」
紺のストライプのネクタイを掴むと、神谷先生の肩がびくりと跳ねる。「そういう反応されると、男は喜んじゃいますよ」耳元に唇を寄せて、ふぅーっと息を吐くだけでびくびくする神谷先生を見たら、くたびれたサラリーマンじゃなくても欲情するかもしれない。だけど僕は異性愛者だと少なからず思っているし、童貞だってとっくの昔に捨てて、生まれてこのかた男に欲情したことはない。それなのに、どうして目の前の神谷先生に、これほどムラムラするのだろう。
「お前が、優等生だとか、いい子だとか、そんなことは俺には関係ない。ただ、見ず知らずの俺を助けてくれた広尾を信頼してなにが悪いんだ」
ぐっと、心臓を鷲掴みにされたかと思えば、今度は優しく包み込む。神谷先生のどこまでも真面目な言葉と痛いほどまっすぐな黒い瞳に、体中がぐらぐらしてたまらない。いついかなる時も僕のペースで会話を進めてきたなのに、神谷先生にのまれそうな自分に気づいて、しっかりと地面に足をついた。大丈夫、まだ僕が優位だ。
ネクタイから神谷先生の顎に指を滑らせる。ぐっと視線が合うように持ち上げると、優等生スマイルで微笑んでみせた。
「ねぇ、神谷先生は毎日あんな風に痴漢されているんですか」
「……そんなことは」
「神谷先生は痴漢されるのに慣れきっていて、じっと時が過ぎるのを待っているように見えましたよ。毎朝同じ人に痴漢されているんですか? ねぇ、僕が守ってあげましょうか」
お断りだ。神谷先生の瞳からひしひしと感じる拒絶に思わず口角を上げる。
「毎朝同性に痴漢されていることを他人にバラされない上に痴漢から守ってもらえる、神谷先生にはメリットしかないと思いますが」
「……俺が断ると言ったら、誰かに話すのか」
「とりあえず弟さんにでも話しましょうか」
「それだけは、やめてくれ」
神谷先生は唇を震わせ、拳を握る。
身内に知られたくないというよりも、弟に心配をかけたくないのだろう。たった一言で、兄弟仲の良さがわかってしまう。僕の家とは大違いだ。
「下校時の電車では痴漢に遭わないんですか」
「……大丈夫だ」
神谷先生はふいっと視線を逸らした。わざとらしいにもほとがある。嘘をつくの下手すぎでしょ。
一緒に登校するのは難しくないが、下校は毎日一緒にできそうにない。三千留たちと寄り道することだってあるし、神谷先生も教師のつき合いがあるはずだ。
とりあえず、毎朝登校するのだからとブレザーの内ポケットからスマホを取り出した。
「とりあえず連絡先交換しましょう。毎朝必ず一緒に登校しますが、下校は要相談ということで」
「生徒と個人的に連絡を取り合うのはよくないと思う」
「旺二郎にバラしま「お前、本当に意地悪いな!」
よく言われます。
にっこり微笑むと、神谷先生とラインのIDを交換する。フルネームで『神谷一志』と登録されているのが神谷先生らしい。アイコンが未設定なのもわかるけど、なんとも味気ない。
「神谷先生、アイコン設定しないんですか」
「アイコン……ああ、よくわからなくて」
「え?」
「なにをアイコンにしたらいいのかわからなくて未設定なんだ……悪いか」
「悪くないです、むしろ」
可愛い。この人、いちいち可愛すぎないか。
教師は、僕の家柄を見て接してくる。広尾家の次男坊だから、へこへこしておこうという魂胆が透けてみえる。だけど、この人は、神谷先生は、僕をただの『広尾五喜』として見ている。広尾五喜として、接してくれている。真面目で融通がきかない神谷先生みたいな人と、三年間一緒にいられる。退屈しなくてすみそうだ。
「そういうお前のアイコンはなんなんだ……これ、お茶か?」
「はい、自分で点てたお茶です」
広尾五喜といえば、茶道の家元の次男坊。その印象がついていることを自覚している。だから、スマホの壁紙も、SNSのアイコンも、茶道関連。人に覗かれた時に「広尾くんらしい」と納得される写真。
再びスマホをブレザーの内ポケットに戻すと、なにやら考え込んでいた神谷先生が僕の顔をじっと見つめる。なにかついていますかと言うのは白々しいし、神谷先生の言葉を待つことにした。
「お前、もしかして清道 の弟か?」
ひくりと、今度は僕の肩が跳ねてしまった。
人から兄の名前がでてくることは稀にあると言うのに、どうして神谷先生相手だと思いどおりにいかないのだろうか。
「ええ、清道は僕の兄です」
「そうだったのか、学生時代はよく清道の家に行ったから、お前とも会っていたかもしれないな」
兄に友人と呼べる人がいるとは思わなかった。それもあの家に呼ぶほどの友人。
会っていたかもしれない、か。なにも知らない人の言葉は残酷だ。きっと神谷先生は兄の暮らす母屋にしか足を踏み入れていないだろう。それならば、僕と神谷先生は絶対に会っていない。特別ななにかがなければ、母屋には行かないし、行こうとも思わないから。
「もしかして、兄とは同級生なんですか」
「ああ。最近はお互い忙しくて会えていないが、よろしくと伝えといてくれ」
はい、わかりました。
そう口にしようとしたのに、声にならなかった。兄のことなんて、何百回、何千回と聞かれてきたのに。いつもだったら上手に対応できたのに。どうして、どうして、この人の前だと上手にできない?
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