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「広尾、どうしたんだ」  するりと、神谷先生の指先が僕の頬を撫でる。  なんなんだこの人。どうして僕に優しくできる? トイレに無理やり連れ込んで、痴漢されていることを弟にバラされたくなかったら毎朝一緒に登校すると決めた男に、どうして優しくできるんだ。  ゆっくり、神谷先生に視線を合わせる。僕と同じ黒い瞳だ。闇に似た漆黒。それなのに、神谷先生の瞳はどこまでも光に似ている。  僕の頬に触れる神谷先生の手をそっと掴む。きれいな褐色だ。この手にキスをしたら、やっぱり信頼するんじゃなかったと僕の頬を叩くだろうか。女性よりもなめらかな手の甲に唇を寄せて、わざとらしくチュッと音を立てると、神谷先生は何度も瞬きを繰り返す。そのたびに色っぽくまつげを揺らしたのち、慌てるように視線を彷徨わせて「……清道とはあまり仲が良くないのか」予想外の言葉が厚ぼったい唇からこぼれた。ほんと、予想どおりにならない人だ。 「……どうしてそう思うんですか」 「清道の話をしてから、広尾の様子がおかしい気がした。誰にだって触れられたくないことのひとつやふたつあるのに、すまない。俺は清道の友人だが、それと同時にお前の教師だ。だから、広尾自身と接するべきなのに、つい懐かしくなって清道の話をしてしまった。教師として恥ずべきことだと思う」  どこまで真面目な人なのだろう。裏をかいたり、隙を突いたり、ああだこうだ、いろいろ手を尽くしたとしても、一生この人には敵わない気がする。  手で顔を覆い、声を上げて笑っていた。こんなに僕を楽しませてくれる人は三千留以来だ。ほとんどの人間はなにを考えているのか、手にとるようにわかるけど、三千留はいまだにわからない。そこがあいつの面白いところだ。この人も、神谷先生もそうだ。次になにをするのか、さっぱりわからないうえに、予想を上回ってきて、心地がいい。最高の気分だ。  ひとしきり笑って、顔から手を退けると神谷先生は瞳をまんまるくしていた。「いきなり笑うから壊れたかと思ったぞ」そんなこと言われたのは初めてで、また笑ってしまう。僕が笑ったらみんな「広尾くんって笑うと幼くて可愛いのね」とハートマークをつけるのに。 「ねぇ、兄のことは清道って呼んでいるんだよね? それなら僕のことは五喜って呼んでよ」 「特定の生徒を名前で呼ぶと示しがつかない」 「二人きりの時だけでいいよ。僕も一志さんって呼ぶし」 「おい、俺は名前で呼ぶことを許可していないぞ」 「神谷先生じゃ味気ないでしょ。それと、アイコンちゃんと設定しておいてね。未設定じゃ色気がない」  一志さん自身には色気ありまくりだけどね。  キスを落とした手の甲を指先でくすぐると、一志さんは肩をすくめる。どこもかしこも敏感だなこの人。もしかして全身性感帯なのか?  むくむくと湧く好奇心で、一志さんの顎を強く掴んで厚ぼったい唇を食らった。どうしていきなりキスをしたとばかりに、一志さんは大きく目を見開いて、僕の肩を押すけど、そんな力で男子高校生を跳ね返せると思っているの。ほんとかぁわいい。もっと、いじめたくなる。  一志さんの唇にチュッチュッと何度も音を立てて吸いつく。女性の唇は飽きるほど味わってきた。やわらかいもの、カサカサしているもの、小さいの、大きいの、それはもうありとあらゆるものを。一志さんの唇は、今まで味わってきたどれよりも、やわらかくて甘い。唇を離した途端、吸いつきたくなる。どうしよう、止まらない。「五喜くんってセックスも大人で素敵」そう言われてきた僕が、覚えたての猿みたいに目の前の唇をひたすら貪っている。  リップ音が恥ずかしいのか、一志さんは耳まで赤く染まっている。ほんとたまらない。眼鏡が邪魔になるほどキスに熱中したのは初めてだと眼鏡を外してブレザーのポケットにしまい、一志さんの唇の感触を楽しみながら、赤くなった耳介を人差し指で撫でる。離れたくない、離したくない、ずっとこうしていたいと一志さんの耳たぶを撫でた瞬間、内ポケットでスマホが震えた。こんな時に誰だと舌打ちをして一志さんから顔を離し、スマホを手にとる。画面に表示された三千留の文字。でるまでかけることは知っている、それなら今でたほうがいいとすぐにスマホを耳に当てた。 「おい五喜、どこをほっつき歩いている。担任の話は終わって解散になったぞ」 「ごめん、ちょっと夢中になってた」 「なにか面白いことがあった声だな」 「バレた?」 「何年お前の幼なじみをやっていると思っている、五喜のことならなんでもお見通しだ――まだ取り込み中か」 「うん、取り込み中だね」 「そうか。俺はもう帰るが、五喜はどうする」 「まだ帰らないから先に帰ってくれるかな」 「わかった。なにがあったのか、ちゃんと俺様に聞かせろよ」  もちろん、王様の仰せのままに。  そう呟いて電話を切り、一志さんのほうに視線をやる。長い口づけのせいで、まだ一志さんの息は切れ切れで、薄い肩を上下させる姿は色っぽい。またキスがしたくなって顔を寄せると、真っ赤な顔をした一志さんにわりと本気の肩パンをお見舞いされた。 「痛いよ一志さん、放置プレイが寂しかった? ごめんね」 「ち、ちが、う。俺が言いたいのはそういうことじゃなくて」 「じゃあいきなりキスしたことに怒ってる? 一志さん、どこに触れてもびくびくするから唇も性感帯なのかなって好奇心が湧いてね、思わずキスしちゃったら、あまりに気持ちいい唇だったから夢中になっちゃった」 「なっ……別にびくびくなんかしていないぞ、お前の触り方がいやらしいだけだ」 「お前、じゃなくて、五喜でしょ」  その唇で、僕の名前を呼んでよ。  そう囁くと、一志さんは観念したように「……五喜」と小さく呟く。たったそれだけのことで、くらりと目眩がする。一志さんの甘い声で、名前を呼ばれるとこれほど頭が痺れるのか。

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