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「名前で呼ばれると最高にぞくぞくするね」
「そうか、それは良かった。そろそろ職員室に戻りたいんだが」
「素っ気ないなぁ、一志さんは」
「ここにいたらなにされるかわからないからな」
「またキスされちゃうかもって?」
一志さんの輪郭を撫でると、やっぱりびくびくと体を震わせる。一志さんの体、エッチすぎるでしょと耳介にキスをすると、もっと触れたくなる。
おかしいなぁ、性欲なんてないに等しかったのに。相手に求められたら、返してあげていた。相手が欲していたら、自分が欲していたように振舞ってあげた。どうして、出会ったばかりの男を、一志さんを、どうにかしたくなるのだろう。
このまま二人でトイレの中にいたら、頭がおかしくなるかもしれない。そろそろ冷静にならなければと眼鏡をかけ直すと、じっと一志さんの視線を感じる。
「それ、伊達なのか」
「ああ、眼鏡のこと? 伊達だよ。素顔が美しすぎるから、眼鏡とこの前髪で半減してるんだよ」
にっこり冗談を言って、トイレの鍵を開ける。
もう一志さんは自由だよと扉を開け放ったのに、一志さんはトイレからでていかず、かけたばかりの眼鏡を外し、右目を隠している前髪をゆっくり掻き上げる。
素顔が美しすぎるから、なんていう理由は一志さんには通用しなかったのかもしれない。だけど、まさか眼鏡を外され、前髪を上げられるとは思わず、視線が泳いでしまう。
「本当は隠したくないんじゃないのか」
「……え」
「他の誰かの前で隠さなくてはいけないのなら、俺の前でくらい隠さなくていい。この顔を誇りに思っているんだろう、もっと見せてくれ。本当に綺麗な顔だ」
僕の頬を撫でて笑う一志さんのほうがよっぽど綺麗だよ、いつもの僕ならそう言えただろう。だけど、言えなかった。隠さなくていい、その言葉がただ嬉しくて、目の前の一志さんを抱きしめることしかできなかった。子どもみたいにすがりつくなんて、僕史上一番ダサい抱擁。それでも一志さんは笑ったりしない。僕を受け入れて、包み込んでくれる。男なのに女神のようだ。
いつ、誰が、このトイレに入ってくるかわからない。扉も開け放っているというのに、一志さんは僕の背中に腕を回し、ただひたすら優しく撫でてくれるから、僕も素直に甘えられる。甘える行為は正直言って好きじゃないのに、一志さんにはどうしてだか、甘えたくなる。不思議な人だと一志さんの首筋に顔を埋めながら思った。
「ベッドの上の僕も今度見てくれる?」
ゆっくり顔を上げ一志さんの頬を撫でる。もう冗談が言える、僕は大丈夫だとアピールするように。きっと察してくれたのだろう、一志さんは小さく笑い「ものすごく元気になったみたいだな、そろそろ行くぞ」僕の手を引いてトイレからでた。この場所に僕一人残して、先に出て行ってもいいはずなのに、とことん優しい人。
「三千留どうしたの。部屋で待ってくれてよかったのに」
職員会議があるから今日は一緒に帰れないぞと一志さんに言われ、大人しく一人で帰宅すると合鍵を持っているはずの三千留がマンションの前に立っていた。僕に遠慮して合鍵が使えないなんて言う男ではない。遠慮する三千留なんて三千留じゃない。
「五喜遅いぞ。合鍵の使い方がわからないからお前を待っていた」
「さすが白金財閥の御曹司、予想の斜め上を行ってくれるね。合鍵の使い方がわからないと来たか、合鍵渡した意味ないね」
「合鍵を使いこなす庶民はすごいな、俺様も見習わなければ」
できないことをできないと言う。それは簡単なようで、とても難しいことだ。僕は三千留のそういうところが好きで、だからこそなにかと世話を焼きたくなる。
合鍵の使い方を教え、まだ住みなれていない部屋へと案内するとまるで自分の城のように三千留はソファーにふんぞり返る。さすが三千留様。
「それで、どんな面白いことがあったんだ。俺様に聞かせてみろ」
「今日、初めて満員電車に乗ったら僕がいかに美形が思い知らされた」
「それのどこが面白い話なんだ、お前が美形だということはよく知っている」
「うんそうだね、さすが三千留様。まぁ満員電車に乗ったんだけど、痴漢されている男の人を見つけて」
「男が他の物体に置き換えられるSF超展開か、悪くない」
「それは置換だね。僕が言っているのは尻を撫で回したりする痴漢。今日は気が向いて痴漢されている人を助けたら、その人百花の教師だった。古典教師の神谷一志さん」
神谷と口にした途端、三千留は「そいつは旺二郎の血縁者か」と言う。あまり下の名前で呼ばない三千留が旺二郎と呼んでいるということは、やっぱり旺二郎は信頼に値する男な気がした。一志さんの弟だし。
「旺二郎のお兄さんなんだって」
「惚れたのか、その一志に」
真実を見通す三千留の青い瞳が僕を見つめる。この瞳に見つめられると、嘘は吐けない。吐きたいと思わない。絶対王者の瞳だ。
「一志さんの前だとどうにもいつもの僕でいられないんだよね。これが惚れているってことなのかな」
三千留は僕の言葉にチェシャ猫のように笑う。
「その感情に名前をつけるのなら、初恋だろう。五喜にこんな顔をさせるとは、一志もなかなかやるな」
恥ずかしいほど甘酸っぱい響きだねと肩を竦めると、ブレザーの内ポケットでスマホが震える。画面に表示された名前に自然と口角が上がるのを三千留は見逃してくれなかった。「一志か」「バレた?」「顔にでているぞ」「三千留しかいないからいいでしょ」
ラインをタップすると、また頬が緩む。ちゃんと、アイコン設定してある。でも古典の教科書って色気ゼロすぎて笑える。本人は色気だだ漏れなのに。「今日はありがとう、明日からよろしく頼む」「明日はどこで待ち合わせしたらいい?」ありがとうからトークを始めるあたり、どこまでも真面目だ。一志さんらしい。「一志さんの家まで迎えに行くから住所教えて」そう返信を打ったそばから既読がつく。四秒後、「一生徒に住所を教えるわけにはいかない」とくそ真面目な返答。となりで僕のスマホを覗き込んでいた三千留はふっと笑い声を上げる。
「くそ真面目なやつだな」
「でしょ。そこが可愛いよね」
「俺様が一志の住所を調べようか」
「それじゃあ駄目。本人に教えてもらわないと」
「そうか、ベタ惚れだな」
一志さんとのトーク画面を見つめ、返信を考える。どうしたら住所を教えてもらえるか、僕にとっての切り札は一つしかなかった。「旺二郎にバラす」そう返した矢先、一志さんはあっさり住所を教えてくれたので、この『旺二郎にバラす』というカードは一生僕にとって強カードになると確信した。
「俺様が住所を調べるよりも卑怯だな」
「しばらくはこのカードをチラつかせて、一志さんが僕に心を開いてきたら手放すよ」
「卑怯なカードはさっさと手放せ。心理的優位に立とうとするな、カッコつけるな、泥臭くあれ。あれこれ考えるより、当たって砕けろ。俺様が砕けた五喜を拾い集めてやるから、何度だって砕ければいい」
新入生代表の挨拶を思い出す。当たって砕けろ? 冗談じゃないね。「当たって砕けるのは僕らしくない。当たったら確実に仕留めるよ」にっこり笑って言うと、三千留もまた笑った。
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