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「一志――ああ、そうか、五喜は百花高等部に入学したんだったな。そうか、一志は一年の古典を担当しているのか。あいつは昔から面倒見が良くて誰からも慕われていたから、お前の助けになってくれるはずだ」  驚いてすぐに声がでなかった。兄があんまり嬉しそうに笑うのだ。兄と会話をした回数は多くないけれど、今まで兄の笑顔というものを見たことがなかった。それが一志さんの話をしただけで、こんなにも笑うのか。いつも淡々とした低い声すら弾んでいる。兄にとってもまた、一志さんは大切な人なのだと誰から見ても明らかだった。  それから一言二言、まるで益のない話を交わし、母と兄は挨拶回りに行ってくれた。 ほっと安堵していると「いっくん、ハーピバ!」と空気を和らげてくれるやわらかい声。ゆっくり振り返るとやっぱりそこにはネイビーのスーツを着た七緒が立っていた。 「七緒来てくれたんだ、ありがとう」 「むしろ幼なじみのバースデーに来ないとか薄情すぎっしょー、もっと早く来たかったんだけどちょっと残業になっちゃって」 「いわゆるブラックバイトというやつだな、法的手段にとる時は俺様に言え」 「いわゆらないから大丈夫! てかちるちる、今日のスーツはんぱないんだけど」  七緒が「輝きぱないねー最高にクール!」と三千留のスーツを見て褒め称え、三千留も当然だとばかりに微笑んでいる。  いつもと同じじゃないのという一言は言ってはいけないことだけはわかるので、大人しくノンアルコールカクテルを飲んで黙っておく。着物が正装な僕にとって、スーツはまるでわからない代物だ。わかることはただひとつ、この会場でもっともスーツを着こなしているのは十代の三千留だということだけ。 「今回はロロ・ピアーナでオーダーした。着心地はもちろん、上品でいて遊び心がある。俺様に似合いのスーツだろう」 「似合いすぎるーーいつものアルマーニも似合うと思ってたけど、ロロ・ピアーナもいいね」 「そういう七緒もよく似合っている。ラルディーニか」 「ちるちるの審美眼マジはんぱないわ、見ただけでわかっちゃうのかーちるちるがイタリアのスーツはセクシーだって言うからね、やっぱりイタリアのスーツ選んじゃうよね」 「三千留はもちろん似合ってるけど、七緒も髪色とネイビーのスーツがよく似合ってるよ」 「ヒュー、着物派のいっくんに褒められちった!」  七緒はにこにこと笑ってから、すっと品のある笑顔になった。ここは公共の場であると瞬時に切り替えるのは、さすが七緒だ。軽いようでいて、場の空気をきちんと読んでいる。日本人らしい配慮ができるいい男だ。  七緒が髪をピンクに染めた時、ミントグリーンのカラコンを入れ始めたけど、こういう場ではカラコンを入れていない。久しぶりに明るい焦げ茶色の瞳を見たと見つめていると「なーにいっくん、俺に惚れた?」冗談を言いながらも、口元に浮かべているのは品の良い笑顔。 「それにしても、ここにいる人たちってみーんな広尾家にゴマスリしてるんだよね」 「三千留の誕生日のほうがもっとすごい人来るけどね」 「それは否定しない、なんたって俺様は王になる男だからな」 「三千留パイセンはんぱぱねぇっす! ねぇ、いっくんは将来どうする気なの。家元はきよみっちゃんがなるわけでしょ」 「どうしたの七緒、いきなりパンチのある質問だね」 「いや、ごくシンプルでストレートな質問だと思うが。なにも考えずに生きていけるほど俺たちは幼くない。そろそろ自分の進路を明確にせねばならない」  そうだねと三千留の言葉に頷いて、それきり言葉が詰まる。  いずれ家元になるのは兄。これは決定事項だ。僕は次男で、いつだって二番でなければならない。一番になってはいけない。そう言われて生きてきた。「清道を越えてはなりません、しかし広尾家の子として優秀でありなさい。二番であり続けるのです」その言葉はいまだに呪いのように僕の体にまとわりついて離れない。  広尾家をでても、どこへでもやっていける自信がある。とりあえず、百花大学に入学して、就活をして、それなりの企業に就職する。なんて夢がない。幼い僕が今の僕の夢とも呼べない夢を知ったら泣くかもしれない。幼い頃の、ただの五喜だった僕の夢はなんだっけ。今となっては思い出せない。 「三千留はどうするの。白金財閥は(つかさ)さんが継ぐんだよね」 「ああ、兄が継ぐだろうな。だから俺様は俺様の道を行くぞ。まずはこの美貌を利用する」 「モデル的な? ちるちるスカウト断りまくってるじゃん。ちるちる巡ってスカウトマンが喧嘩し始めたもんねー、こっちが先に声かけた! いや俺が! って。あれやばかったわー」 「俺様をスカウトするなんぞ百年早い。事務所を設立し自ら広告塔になり、人材を集める。才能ある若者を援助し、育成する予定だ」  明確なビジョンを嬉々として語る三千留の姿は頂点に立つ王そのものだ。これだから三千留は面白いといつものようには笑えなかった。  僕にはなにもビジョンがない。三千留のように語れるものがない。優等生を演じて満足している永遠の二番手な僕と、人の上に立つと自負している三千留ではなにもかもが違うのだと見せつけられた気がした。 「ちるちるってただのクレイジーじゃないよね、俺はまだなーんにも考えてないよ」 「お前らが路頭に迷ったら俺様が拾ってやる」 「やったーちるちる愛してる!」  三千留にじゃれつく七緒を見ながら、ほとんど飲み干しているノンアルコールカクテルに口をつけた。そうでもしないと真実を見通す三千留に突っ込まれる気がしたから。五喜には明確なビジョンはないのかと。

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