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「……俺が教師になろうと思ったのは、旺二郎がきっかけだ。あいつは勉強嫌いなんだが「兄貴に教えてもらうとちょっとだけ勉強楽しい」って言ってくれてな、それがものすごく嬉しかった。旺二郎のおかげで、人にものを教えることが好きになった。勉強はわかるようになれば楽しくなる。勉強が嫌い、苦手な生徒たちの手助けができればと思っている。もちろん好きな生徒にはもっと好きになってもらえるようにな」  一志さんの進路を決めたのは旺二郎だけど、それでも一志さんの人生の舵をとっているのは、紛れもなく一志さんだ。家族に縛られているわけではなくて、一志さん自身が決めた道。それを堂々と語る一志さんはかっこ良いと素直に思った。いつもはどこまでも可愛いくせに。 「なりたいものなんてないと思ってたけど、ひとつ思いついたよ。僕、一志さんの婿になりたいな」  ずいっと一志さんに顔を近づけ、いつもの調子で冗談を言う。そうでもしないと子どもみたいに取り乱して泣いてしまう気がしたから。  鼻と鼻が触れ合い、すぐにでもキスができる距離なのに、一志さんはちっとも困った顔をしていない。むしろ僕の心を見抜いているように、僕の眼鏡を外して、前髪を掻き上げてくる。  ほかの誰かだったら、さり気なく拒絶できるのに、一志さんにはできない。どうしてだか、できなかった。僕の心の中にするりと入ってきて、まるごと抱きしめてくれる一志さんを、拒絶なんてできない。 「ここには俺と五喜しかいない。だから、無理して笑わなくていい。自分の気持ちに嘘をつかなくていい。お前は広尾五喜じゃなくていいんだ、ただの五喜になっていい」  一志さんの言葉はまるで優しすぎる毒のようだ。ゆっくりと僕の体にこびりついて、離れない。なんて心地の良い毒だろう。母の言葉は呪いとなって、ただただ僕を雁字搦めにしたけれど、一志さんの毒は、どこまでも僕を解き放ってくれる気がした。  一志さんの体を思いきり抱きしめて、二人してソファーに倒れこむ。それでも一志さんはやめろだとか、離せとか言わずに、ただ僕の背中に腕を回してくれる。 「三千留が、昔言ったんだよね、僕の顔を見て仮面だって。形状記憶みたいに笑顔貼りつけてるから仮面かと思ったって。失礼なやつだよね、でも、本当のことだ。僕はいつでも偽りの仮面を被ってた、これを取ったら、誰にも必要とされないただの五喜になっちゃうから。でも、三千留はただの五喜でいることをよしとしてくれた、初めての友だちなんだ」  ぽつりぽつりと昔話を口にする。一志さんは海のように穏やかに微笑み、ただ頷いて、僕の背中を撫でてくれる。だから、するすると本音がこぼれてしまう。 「一志さんはどうしてただの僕を受け入れてくれるの、僕が生徒だから? 親友の弟だから?」  広尾五喜じゃない僕になんの価値があるのか。自分でも理解していないのに、一志さんはどうして受け入れてくれるのだろう。  三千留は王様だ。あらゆる人間をこよなく愛する。長所だけではなくて、欠点さえも。三千留がそういう男だと、僕は知っている。だから、僕を受け入れてくれる。だけど、一志さんは王様じゃない。ただの僕なんて、受け入れる必要はないのだ。  一志さんの手が、僕の前髪を撫でる。「馬鹿だな五喜は」そう言って笑う一志さんがどこまでもきれいで、泣きそうになる。 「生徒だから、清道の弟だからだとか、五喜を受け入れることになんの関係があるんだ。電車で俺を助けてくれたのは広尾五喜でもなんでもなくて、ただの五喜だっただろ、俺はあの日からお前を一人の人間として信頼している――いや違うな、あのことがなくたって、俺は五喜を受け入れるぞ。白金や本郷、旺二郎だって、なにがなくてもお前を受け入れているだろ。五喜は物事を難しく考えすぎだ、もっとシンプルに考えてみろ」  シンプルに考えるって難しすぎるでしょ。思わず眉根を寄せると、一志さんの指が眉間のしわを優しく解していく。くすぐったいと頬を緩めると、一志さんも優しく笑った。「俺の前でくらいなにも考えずに馬鹿になっていいぞ。どんな五喜でも受け入れてやる、大丈夫だ」どこまでも僕を甘やかす言葉も添えて。いったい僕をどうする気なのだろう。無条件で甘やかされたことなんて、なかったから、どんな顔をしたらいいのかわからない。わなわなと唇が震えるのはどうしてだ。嬉しいからなのか、照れくさいからなのか、わからないよ。 「……ねぇ、僕を甘やかしてどうする気なの。本気になっちゃうよ、本気で、一志さんがほしいってだだこねちゃうよ、ていうかもう、大分本気で駄目になってるよ、一志さんのことどんどん好きになっていってる」  そもそも、痴漢から助けるなんていう気まぐれを起こしちゃう時点でおかしいんだ。一志さんの色気に誘われて、優しさに包み込まれて、どろどろに甘やかされて、僕溶けちゃいそうなんだけど、どうしてくれるの。  ぼたぼたと瞳から涙がこぼれ、一志さんの頬に当たる。これほど泣いたのはあの日以来、本当の母が亡くなったあの日以来かもしれない。  一志さんは僕をじっと見つめ、涙を拭ってくれる。どこまでも優しくて、甘い毒だ。 「未成年はお断りだ、せめて五年待て。五年経っても同じ気持ちだったら告白しろ」  相変わらずくそ真面目な返答に小さく噴き出してしまう。男だからと断らないあたりが、一志さんらしい。 「五年も待てないよ、ていうか、もう四年だけどね」 「もしかして、もう誕生日来ているのか」 「もうっていうか、今日誕生日」 「そういうことは早く言え、誕生日おめでとう」  今日、飽きるほど聞いた『誕生日おめでとう』。そのすべての誕生日おめでとうを合わせても、一志さんの言葉には敵わない。  穏やかな表情で、僕の前髪を撫でてくれる一志さんに「ありがとう」と素直に口にする。おめでとうと言われるたびに心のこもっていないありがとうを返してきたけれど、一志さんには心から言えた。それが嬉しくて、少し照れくさい。

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