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「取り繕わなくていい。本当のお母さんのこと、育てのお母さんのこと、家族のこと、五喜が話したいと思っているのなら俺に聞かせてくれ。前も言っただろ、ここには俺と五喜しかいない。だから、五喜の話したいことを話したらいいんだ」  一志さんの手がぽんぽんと僕の背中を叩く。泣いている子どもを安心させる手つきだ。心で泣いている僕を一志さんは見抜いて、そうしてくれているのだろう。どこまでも穏やかであたたかい。  眼鏡を外し、前髪を掻き上げて、一志さんの肩口に顔を埋める。ここは広尾五喜から五喜に戻っていい場所なのだと目を閉じると、頬に涙が流れた。いつから僕はこれほど涙腺が弱くなったのだろう。きっと一志さんのせいだ。一志さんの前でだけ弱くなれる。 「……重たい話だけど、いいの」 「重たいも軽いもない。五喜の家族の話だろ」  ああ、もうまったく、この人はどれだけ僕を夢中にさせるのだろう。  一志さんの腰に腕を回して、心ごと寄りかかる。普段なら腰に触るなと怒られそうなのに、今の一志さんはなにも言わない。ただ黙って寄り添ってくれる。だから、今だけはいつもの軽い言葉を引っ込めようと思えた。 「……僕の父が広尾家当主だと知ったのは、本当の母が亡くなった日なんだ。僕は動かなくなった母を見て馬鹿みたいに泣くことしかできない子どもで、迎えに来てくれた父を頼るしか生きる術がなかった。だけど、父に連れられてあの屋敷に行ったら、当主の妻、僕の育ての母なんだけど、彼女が烈火の如く怒ってね。愛人の子と同じ空気を吸いたくないと。それでも父は僕を放っておくことができなくて、僕は離れに住むことになったんだ。母屋には父、母、兄。離れには僕一人。それが、育ての母の精一杯の譲歩。離れには使用人がいたし、生活に困ることはなかった。だけど、心にはぽっかり穴が空いていた気がする。母を亡くし、本当の父とは会話を深く交わすことができず、兄は僕の存在に戸惑い、育ての母は僕が視界に入ると美しい顔を歪める。僕のせいで広尾がバラバラになっているように感じた。実際、バラバラになったのかもしれない」  何度も息が詰まった。そのたびに一志さんが僕の背中を撫でくれる。「大丈夫、俺はここにいるから。ゆっくりでいい、五喜のペースでいいぞ」優しくて、穏やかな言葉をかけてくれる。たったそれだけのことで、呼吸ができるようになった。  ああ、一志さんが持っていたのだ。僕を広尾家の呪縛から解放してくれる鍵を。つらくても、苦しくても、一志さんに話したい。聞いてほしい。 「兄と父は僕に冷たい態度はとらなかったけど、育ての母が僕を毛嫌いしていたから、どうしても家の中がギスギスしていたのは離れにいても感じたな……僕のこの顔はね、父によく似ているんだ。年を重ねるごとに父に似てきている。生き写しだとも言われる。育ての母はそれが一番許せなかったのだと思う。愛人の子が父に似ていることを。だから、僕は眼鏡と前髪で顔を隠すことにした。父に似ている顔を隠すために」  肩口から顔をゆっくり上げると、一志さんは僕の髪を、頬を撫でる。そうしてほしかったから、無意識に顔を上げていた。一志さんの手に擦り寄り、目を瞑る。子どもみたいなことをしているとわかっている。だけど、一志さんに触れてほしかった。僕のすべてを。 「だけどね、僕は、この顔が誇りなんだ。本当の母さんによく言われたから。五喜はお父さんによく似ているって。本当に嬉しそうに母さんが言うんだ。だから、本当は、隠したくない。見てほしい。だけど、僕は弱いから、誇りであるこの顔を隠すことでしか、自分と育ての母を守れなかった。僕の顔を見るたびに怒り、傷ついていた彼女を苦しめるこの顔を隠す以外に、思いつかなかった」  本当の母、育ての母。僕にとっては二人とも母なのだ、どうあがいても。言葉にすることでようやくわかった。僕は育ての母とちゃんと言葉を交わしたことがあっただろうか。眼鏡と前髪で顔を隠すよりも、ちゃんと話すべきだった。向き合うべきだった。  また、涙が流れる。そのたびに一志さんが指先で拭ってくれた。くすぐったくて、照れくさくて、どうしようもなく嬉しい。 「ねぇ、一志さん、僕は育ての母とやり直せるかな。それとも、もう手遅れかな」  一志さんは穏やかに微笑む。その笑顔を見ているだけで、救われる気分になる。 「手遅れなわけがないだろ。大丈夫だ、何度だってやり直せる。五喜の優しさを、育てのお母さんだって知っているはずだ――なあ、母の日にカーネーションを贈ってみないか」 「僕だけで、贈るの? いつも兄と一緒だから受け取ってもらえたけど、僕だけじゃ受け取ってもらえないよ」 「やってみないとなにも始まらないぞ。受け取ってもらえなかったら、俺がカーネーションもらってやる」  その場で捨てられるかもしれない。お互い傷つくかもしれない。だけど、やる前から諦めていたら、なにも始められない。  気合いを入れるためにぎゅっと一志さんを抱き寄せる。そうすることで息苦しさから解放されて、深く呼吸ができる。 「一志さんは僕のお母さんじゃなくて、お嫁さんだけどね」 「すっかり元気になったみたいだな。なあ、本当のお母さんにも白いカーネーションを贈ったらどうだ」 「母さんはどこにいるのかわからない」 「そういう時こそ友だちを頼ったらどうなんだ」  そうか、僕には世界一頼りになる王様がいる。三千留に聞けば本当の母が眠っている場所なんて一瞬だ。今までそうしなかったのは、僕に勇気が足りなかったからだ。 「……育ての母へのカーネーションはまだ勇気が足りないから郵送で贈ることにする。そのかわり、母さんには自分の足で届けに行きたいんだ。一志さんについてきてもらってもいい、かな」 「ああ、もちろん」 「僕の未来の恋人ですって紹介するね」 「それはやめてくれ、ほら飯にするぞ」  すっかりいつもの調子に戻っている。もちろん、取り繕っているつもりはない。今の僕はただの五喜だ。ただの五喜として、一志さんが好きだ。話す前よりも、もっと好きになっている。好きが爆発しないように、適度に発散しないといけないなぁ。  そうだ、キスをしよう。筑前煮を皿に盛りつけ始める一志さんの頬にキスをする。「僕の話を聞いてくれてありがとうのキスだよ」ふざけたことを笑顔で言うと、本気のデコピンをされた。「馬鹿言ってないで運べ」そう言った一志さんはいつもより無邪気に笑っている。穏やかで大人びている一志さんの無邪気な顔、可愛い。百点満点中の一億点。筑前煮を受け取ってから、今度は唇に軽く吸いついた。「今のは一志さん可愛いなのキス」眉根を寄せて頬を微かに赤らめている一志さんにまたデコピンされないために、キッチンから逃げるように筑前煮をダイニングテーブルへと運んだ。

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