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本気の接吻

 スポーツは苦手じゃない。むしろ得意なほうだ。だけど、あまりに目立つのは優等生らしくない。目立つポジションは、三千留や七緒、旺二郎に任せて、何事も二番を目指すのが、僕のルール――いや、ルールではない。僕に課せられた呪いだ。  兄を越えてはいけない、二番であれと言う育ての母による呪いは、いかなる時も僕を縛りつける。家の中で二番であればいいはずなのに、家の外においても、二番に固執をしてしまっている。育ての母のせいではない、これは僕が勝手に縛られているだけだ。  高校生活初めての体育祭でもほどほどに、二番を目指そうと思っていた。一志さんにあんなことを言われるまでは。 「体育祭当日は木場先生と一緒に行くことになったから、五喜とは行けない」  夕飯を食べ終え、一志さんの膝で一息ついていたら、いきなり一志さんの口から他の男の名前。テンションだだ下がりだ。僕ってなんて面倒くさい男なんだろうなと思いながら、前髪を掻き乱した。  やる気を母親の腹に捨てて来たと言われる数学教師、木場潤(きばじゅん)。どうして一志さんがあの木場潤と一緒に会場まで行くのか、どうにも納得がいかず、一志さんの薄いお腹に寄せていた顔を上げ、一志さんを見つめた。 「なんで木場潤と行くの」 「フルネームで呼ぶな、木場先生と呼べ」 「木場潤のは松潤みたいなあだ名的な意味合いだよ。それよりなんで木場潤と行くの」 「教師は生徒より早く集合することになっている、それで木場先生が俺の車乗っとくかって誘ってくれて」  ふぅん。一志さんが木場潤の車に乗るんだ。木場潤は性欲なんてありませんと死んだ魚のような目をしているけれど、車という密室で、二人きり。一志さんのありあまる色気に誰しもクラクラするだろう。死んだ目をした木場潤さえも。信号待ちの間にムラムラした木場潤が、助手席に座った一志さんの太腿をじっとり撫で回すかもしれない。僕だってまだ撫で回したことないのに。そもそも、僕は一志さんと一緒に車に乗ったことがない。僕より先に木場潤が助手席に座る一志さんの横顔を見るなんて、そんなのって、ない。 「木場潤が一志さんに襲いかかってきたらどうするの」 「ありないだろ。あの木場先生だぞ」 「一志さんは自分の色気をわかってなさすぎるよ」  はぁと深いため息を吐くと、一志さんが小さく噴き出す。そういう時の一志さんは無邪気で、いつもより幼くて、とびきり可愛い。可愛いけど、なんで今笑うかな。僕は真剣なんだけど。 「……一志さん、なんで今笑ったの」 「五喜があまりに真剣だからおかしくて」 「真剣だよ。真剣に一志さんのことが好き。だから、木場潤に妬いてる。二人で車に乗るってことは、一志さんは助手席に座るんでしょ。そんなのずるい、僕だって、助手席に座る一志さんの横顔、見たいよ」  つまるところ、これはヤキモチだ。僕があの木場潤にヤキモチを妬く日が来るなんて思いもしなかった。そもそも木場潤が一志さんと同僚であることが気に食わない。一志さんと飲み会したり、合コンに行ったことだってあるかもしれない。同じ目線に立って物が言える木場潤が羨ましい。  一志さんはほんのさっきまで無邪気に笑っていたのに、今はもうただ美しく微笑んで、すっかり掻き上げた僕の前髪を撫でてくれる。僕が一志さんに撫でられると嬉しくなるって知っていて、やっている。計画的犯行だ。なんてずるい人。  一志さんと二人きりになった瞬間、眼鏡を外して、前髪を掻き上げるのが日課だ。そうすると一志さんはどこか満足に微笑んで、僕の髪を撫でてくれる。その瞬間、僕は広尾五喜からただの五喜に戻るのだ。 「俺が運転席で、五喜が助手席じゃだめなのか」  それって、つまり、ドライブデート。  思わず一志さんの膝から飛び上がり、一志さんの肩に手を置く。「どういう風の吹き回しなの」ドッキリでした、とかなしだよ。純情な男心を弄ばないでね。 「真剣な五喜に応えたくなったんだ」  一志さんの照れが滲む真剣な表情に、胸がキュンと締めつけられる。キュンとする、なんてファンタジーな効果音だろうと思っていたけれど、確かにキュンと来た。  一志さんからしたら、僕は好きだなんだと一方的に愛を押しつけている迷惑な生徒でしかないのに。それでも一志さんは真剣に考えて、応えてくれる。どこまでも真面目で不器用な可愛い人。  ああ、駄目だ。好きが爆発する。とりあえず、深呼吸。それから、一志さんを強く抱きしめる。駄目だ、これじゃぜんぜん足りない。もっと、一志さんがほしい。 「ねぇ、一志さん、キスしていい?」 「……い、いつもは聞かないでするだろ」  僕から視線を逸らそうとする一志さんを逃すまいと細い顎を優しく掴む。じわじわと一志さんの目尻が赤く染まっていくのがたまらない。 「いいぞって一志さんの口から聞きたくなった。ねぇ、いい? 嫌だって言ってもするけどね」  それなら聞く意味ないだろと一志さんが笑った。そうだねと僕も笑って、微かに赤い一志さんの目尻に口づける。くすぐったいのか、一志さんは瞬きをする。そのたびに、一志さんのまつげが僕の頬をくすぐった。頬に、鼻に、キスを落とし、さぁ唇にと寄せた瞬間、一志さんの手によって愛しい唇が隠される。今度は僕が瞬きする番だ。 「……五喜が、体育祭で本気を出したら、キスしてもいい」  本気を出す。それは、僕にとって無縁すぎる言葉。思わず体が固まる。  でも、僕が本気を出しさえすれば、一志さんはキスしてもいいと言った。許可がでるまで暴くのはやめようと必死に我慢していた一志さんの口内を、貪っていい、ということだろうか。だけど、本気を出すと即答できないほどに、僕の体には呪いがこびりついてしまっていた。

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