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 長かった。本当に長かった。  お預けを食らってからの一週間は地獄のような日々だった。普段通り会話をしていても、ふとした拍子にキスをしたくなる。一志さんとキスをしたすぎて困る。たとえば一志さんが首を傾げた時、お味噌汁を飲んでいる姿、授業の準備をしている真剣な眼差し。いちいち僕のツボに入る。必死に色っぽい唇を見ないように意識しているはずなのに、どうしても視界の端に映してしまう自分がいた。暴走しそうになるたびに素数を数え、夕飯の片付けをすませたらさっさと自分の部屋に帰ることで、どうにか理性を保った。  頭の中は常に霧で覆われている日々。その生活も今日で終わりだ。今日、僕は人生で初めて本気を出す。一志さんとキス出来なかった鬱憤を晴らすため、本気を出してやる。ちょっと趣旨が変わっている気がするが、最終的には本気を出すという結論に行き着くのだから問題はない、はずだ。  僕はやる、やってやる。強く拳を握りしめ、赤いハチマキを頭に巻く。トイレの鏡に映る僕はいつも通り完璧なのに、となりから笑い声が聞こえる。  連れションなんて趣味じゃないだろうに、どうして今日にかぎってついてくるのかな三千留。性格悪いよ。  憎らしいほどに美しい青い瞳を睨むと、三千留はますます上機嫌に笑う。 「あの五喜が一人の男にこれほど翻弄されるとは傑作だな――噂をすれば、だ」  えっと声が出そうになり、出入り口に視線をやると黒いジャージを着た一志さんが立っていた。今日は木場潤が迎えに来るという理由で朝食を一緒にとらなかったから、今日始めて見る一志さんだ。いつもスーツ姿で色気だだ漏れだったけど、ジャージもいい。健康的なエロスが漏れている――ああ、もう、僕の馬鹿。理性仕事して。 「広尾、白金、おはよう」  いつ誰が入って来るかわからない。一志さんが僕のことを広尾と呼ぶのは当然だ。だけど最近は「五喜おはよう」と言われていたせいで、広尾呼びの挨拶は距離を感じてしまう。いつもみたいに名前で呼んでよ、なんて優等生の広尾五喜は言えそうにない。 「神谷先生おはようございます」  にっこり優等生スマイルを浮かべると、三千留が僕と一志さんの顔を交互に見て、大袈裟に噴き出した。 「五喜、その仮面気持ち悪いぞ、外せ――ああ、そういえば外せるのは一志だけだったか? 一志、あまり五喜を弄ぶなよ。こいつは意外と繊細なところがある。向き合うのならとことん向き合ってくれ」  三千留に腕を掴まれたかと思えば、トイレの個室に押し込まれる。え、ちょっと三千留どういうこと。口を開こうとしても三千留はただ笑うだけ。気がついた時には一志さんも三千留に押され、トイレの個室で二人きり。出会った日のことを思い出したのは、きっと僕だけじゃない。 「これで五喜と一志は二人きりだ。互いの仮面を外してもいい、俺様が許す」  三千留は口角を上げると、個室の扉を閉める。出入り口の扉が開き、三千留が出て行ったことを察すると、しんと静まり返った。とりあえず誰かが入って来ないようにさりげなく鍵をかけると、一志さんがふっと笑った。「鍵はかけるんだな」さっきまで、先生の顔をしていたのに、すっかり一志さんの顔だ。たまらなく可愛い。 「一志さんとの時間を邪魔されたくないからね――おはよう、一志さん」  一志さんのほうへと向き直り、優等生の仮面を外す。だけど、誰が入ってくるかわからないからなるべく小声で言うと「五喜おはよう」一志さんも小さく笑った。  やっぱりジャージは卑怯だ。きっちりかっちりしたスーツ姿は社会人としての魅力が溢れているけれど、ジャージは憧れの先輩感が滲みでている。  今日、本気を出せば一志さんのやわらかい唇に触れられる。そう思って地獄の日々を堪えた。あとは僕が本気を出せばいいだけ――果たしてこれでいいのだろうか。一志さんとキスをするために、本気を出す。それってお小遣いほしさにテストを頑張る子どもだ。ご褒美のために頑張る子どもは、ご褒美がなければ頑張れなくなる。ご褒美のグレードはどんどんつり上がり、キスよりも刺激的なご褒美を要求するようになる。僕も、一志さんも、駄目になる。  霧が一気に晴れていく。一志さんとキスができない苛々でもやもやしていると思った。そうじゃなかった。本気を出すために、一志さんとのキスを求めるなんて、どう考えてもおかしい。一週間かかって、ようやく気がついた自分に笑う。  箍が外れたように、一志さんの体を力いっぱい抱きしめる。「おい、五喜」一志さんの両頬を手で挟み込み、一週間ぶりにその唇に触れると、もう駄目だった。  ああ、好き、大好き、一志さんへの好きが溢れて止まらない。触れ合った瞬間こそ、戸惑いを隠せていなかった一志さんの瞳は徐々に和らいでいき、ゆっくり閉じてくれる。初めて、一志さんと思いが通じ合ったキスをしている気がした。  ちゅっちゅっと一志さんの上唇を啄み、滑らかな頬をやわやわと撫でるたび、一志さんの唇から「ん、はぁ……ふ、ぅ」熱が孕んだ吐息が漏れる。ああ、もう、可愛い。可愛い、可愛い、可愛い。  一志さんは扉に背中を預け、僕の背中に腕を回した。まるでもっとと言っているみたいだ。口づけの合間に「一志さん、好き、大好き、なんでそんなに可愛いの」どろどろの砂糖みたいに甘い言葉を囁く。そのたびに一志さんはまつげを震わせ、僕の服をきゅっと握りしめる。その仕草があまりに可愛くて、一志さんの唇をしつこく求めてしまう。  いつ人が入って来るかわからない、唇を離さなければいけないとわかっていながら、久しぶりに触れた一志さんの唇から離れがたい。それでも、誰が入って来る前に約束を破ってまでキスをした理由を説明しなければと、ゆっくり唇を離した。一志さんは呼吸を整えるように肩を大きく上下させてから「……五喜」と小さく僕を呼ぶ。キスをした僕を咎めるような言い方ではなくて、ひたすら穏やかなものだった。まず怒るよりも、話を聞く。僕の大好きな一志さんはそういう人だ。

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