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05
「旺二郎に心配かけるなんて教師としても兄貴としても失格だな」
僕のために教師失格でいいよ。むしろ喜ぶ。というかその言葉、僕に言ってほしかったなぁ。
「兄貴失格なわけない、俺の自慢の兄貴だよ」
ザ・ブラコン発言。旺二郎は心からそう言っているのだろう。一志さんが兄だったら、誰しもがそう言う。でも、兄じゃなくてよかった。兄だったら、生徒と教師、男同士、兄弟の三重苦になる。
「俺も自慢の弟になれるように、頑張る」
「旺二郎強くなったな」
このままいくと、一志さんは旺二郎の頭を撫でて、もっと褒めるかもしれない。それはちょっと、ものすごく妬ける。たとえ旺二郎が一志さんの弟でも、妬ける。
軽く頬を叩き、眼鏡のブリッジを押し上げる。広尾五喜のスイッチが入ったことを確認して、扉を開けた。
「神谷兄弟って本当に仲良しなんですね。旺二郎はいいね、神谷先生みたいな素敵なお兄さんがいて」
しれっとした表情で旺二郎を見てから、一志さんへ視線を映す。一志さんは微かに眉を寄せたけどなにも言わない。だから、ちょっとだけ意地悪したくなった。
「神谷先生って弟さん思いですね」
対教師用の笑顔を浮かべ、優等生らしい声色で一志さんの耳元で囁いて、ふぅーっと息を吹きかける。ほんの少し口角が上がりすぎた気もするが、旺二郎ならば気づかないだろう。一志さんは微かにまつげを震わせるも、しっかり僕の目を見る。かぁわいい、キスしたくなる。
「兄が弟を思うのは当然だ。もちろん生徒のこと、広尾のことだって大切に思っているし、いつも感謝している」
一志さんは僕から目を逸らさずはっきりと言った。
大切に思っているって、どう考えてもずるいでしょ。僕のことをどこまで翻弄すれば気がすむの。可愛いのにこの人は魔性だ。天然たらしだ。どうしよう、唇がにやける。自分で制御できないほど緩んでいく口元を、旺二郎にバレるわけにはいかなかった。思わず口元を手で覆い隠すと、旺二郎が心配するように僕の顔を覗き込んでくる。
「どうしたのいっちゃん気持ち悪いの」
旺二郎が鈍くて助かったよと心から思いながら「旺二郎もだけど、神谷先生も天然たらしなところあるよね」と旺二郎にだけ聞こえるように言った。きっと旺二郎もこの天然で誰かを翻弄するのだろう。
「それじゃあ二人とも張り切りすぎて無理だけはするなよ――赤組を心の中でこっそり応援しておくな、みんなには内緒だぞ」
一志さんはやわらかい唇に人差し指を押し当てて、対弟用と思われる微笑みを僕達に向ける。
こっそり応援とか、みんなには内緒だぞって、いちいちワードが可愛すぎるでしょ。人差し指を唇に当てるのもずるい。可愛い。可愛いがすぎる。一志さんの可愛さで呼吸困難になりそう。いっそ本望だ。
じわじわと頬が、耳が熱くなる。これもぜんぶ一志さんのせいだ。去っていく背中を見つめていると「いっちゃん、俺たちも行こう……どうしたのいっちゃん、耳まで赤いよ」いくら鈍い旺二郎でさえ気づいてしまうほど、赤くなっていたらしい。やばいな、なんて言い訳しようかと考えていると、旺二郎は僕が心底具合が悪いと勘違いしている。さすが兄譲りの優しさか、旺二郎は大きな手で僕の背中を撫でてくれる。
「効果は抜群だって気分だよ。二秒でいつもの僕に戻るから安心して……いち、に、はい、いつもの僕に戻ったでしょ」
必死に素数を数えてから、眼鏡のブリッジを押し上げ不敵に微笑む。旺二郎はすっかり安心したのか、僕の背中からゆっくり手を退けた。
「うん、いつものいっちゃんだね。今日はほどほどに頑張ろうね」
ほどほどかぁ、それは約束出来ない。今日の僕は僕のために本気で走るって決めたから。「借り物競走でイケメン眼鏡って書いてあったら僕のところ来ていいからね」いつもの冗談を口にして、二人揃ってトイレからでる。
長いトンネルから抜けた気分だ。人に言わせたらたった一週間かもしれないけれど、僕に言わせたら五年、いや何百年にも感じた。一志さんもそうだったらいいなと旺二郎にバレないように微笑み、赤組の席へ戻った。
「……五喜」
「なに一志さん」
「今日は膝枕じゃなくていいのか」
「うん。この体勢、膝枕では味わえない幸福があるよ」
夕飯を終え、ソファーの上でいつもの膝枕タイム――ではなくて、一志さんの体を足の間に挟んで後ろから抱きしめるバックハグ。どこかそわそわした様子で体を縮こませている一志さんが可愛くて、つい抱き寄せる力を強くしてしまう。
この体勢のなにがいいって、一志さんのうなじや赤くなっている耳を見放題。ふわふわした髪に顔を埋めてキスすることだってできる。一志さんの良い匂いが堪能できる。控えめに言って最高だ。
「ねぇ一志さん、今日の僕どうだった?」
後ろから顔を覗き込むと、一志さんはふっと笑い、僕の頬を優しく撫でてくれた。「褒めてほしそうな顔、してるな」だって、人生初めての一位を取ったからね。好きな人に褒めてほしいでしょ。
今までだったら、ギリギリ二位をキープしていた。だけど、今日のリレーは本気で一位を取りに行き、一位をキープしたまま、赤組アンカーの四信さんにバトンパスをした。僕が一位を死守しさえすれば、あとはバスケ部部長の四信さんがなんとかしてくれる。僕の予想通り四信さんは余裕の表情でゴールテープを切ってくれた。
結果として赤組は優勝できた。勝利の女神がついていたからかもしれないと一志さんの手にすり寄る。
「今日の五喜、格好良かったぞ。よく頑張ったな」
一志さんはどこまでも穏やかな甘い声でそう囁くと、僕の唇に触れるだけのキスを送る。ぼうっと火が燃えたように顔中が熱くなり、あっという間に離れていこうとする一志さんの唇を追いかけた。好きな人に格好良いと言われたら誰だってスイッチが入る。うん、僕はなにも悪くない。
一志さんのやわらかい唇に吸いついてから、ぴったり閉じている唇を舌でなぞると、やわやわと唇が開いていく。やっと、開いてくれた。きっとこれは一位を取ったご褒美じゃない。一志さんが僕のことを拒んでいないという意思表示。
都合良く解釈してしまうけど、いいよね。うん、いいはずだ。自問自答してから、唇から覗く赤い舌にごくりと喉が鳴った。焦ってはいけないと頭ではわかっているのに、覚えたての中学生のように、一志さんの舌を強引に絡めとり、体ごと僕のほうへと向かせる。ちゅくちゅくと唾液が擦れると、ぞくぞくと心が震えた。ただ舌を擦り合わせているだけで、これほど気持ち良くなるなんて知らなかった。好きな人、一志さんとだから、こんなにも気持ちいい。
「んく、ぅ……ふぅ、……ッ」
そんなに甘い声出して、僕をどうするつもり。殺す気なの。一志さんの甘い声を聞かされ続けたら頭がおかしくなりそう。いや、もうなっているや、一志さんを離してあげられそうにない。
燃えるように熱い一志さんの舌を唇で食み、ちゅっちゅうとやわく、時に強く吸い上げ、甘く歯を立てる。「一志さん好きだよ、大好きだ、キスってこんなに気持ちいいんだね」好き、大好きと繰り返しながら、ときおり気持ちいいねと囁く。僕とのキスが気持ちいいものだと、一志さんに刷り込むように。
「んは、ンん……っい、つき、それ、やだ……っ」
「それって、どれ? こうやって舌を吸うこと? 甘く噛むこと? それとも気持ちいいねって囁くこと? 本当はやだ、じゃなくて、いい、でしょ?」
だって、一志さん、気持ちいいって顔してるよ。
ふぅーっと一志さんの口内に息を吹き込む。さっきからずっと一志さんの頬が、耳が赤い。その赤は引くことなく増していく。どこまで可愛いの、この人は。可愛いの果てが見えない。
でもこれ以上キスを続けていたら、もっとやらしいことをしたくなる。うそ、もうすでにしたい。だけど、それはまだ許されていない。もう待てない、五喜が好きだ、抱いてくれと一志さんから聞くまでは、堪えてみせる。本当は一秒だって堪えたくないけど、一志さんが気持ちを認めてくれるまで待ってみせる。
ゆっくり唇を離してから、一志さんの唇を濡らしている唾液を舐めとり、ちゅうっと吸い上げた。まだ黒い瞳を潤ませている一志さんは「は、……はぁ……」と熱帯びた吐息を漏らしてくったりと僕に寄りかかってくる。ああ、もう、可愛い。僕が悪い狼だったら、くったりした一志さんをこのままソファーに押し倒して、あんなことやこんなことしてたのになぁ。我慢しすぎていつか血の涙がでるかもしれないと一志さんの背中を撫でる。
「ねぇ、一志さん、僕への気持ち認めていいんだよ。僕のことが好きだってこの唇で早く囁いてよ」
一志さんの唇を親指でふにふにとやわらかく押すと、一志さんはふいっとそっぽを向く。色気の塊のくせに、時たま子どもみたいなそぶりを見せるのは反則だ。僕が一志さんを振り回しているようで、本当は一志さんが僕を振り回しているってこと、一志さんは絶対に気がついていない。
「……五年、待てと言ってるだろ。教師としてそれだけは譲れない」
「五年じゃなくて、四年だってば。もう一志さんのくそ真面目。でもそういうところ大好きだよ。だから、こっち向いて?」
こっちを向いてくれたら、またキスをしよう。一人で勝手に決め、一志さんの顔の輪郭をさわさわとなぞる。眉尻を下げた一志さんが、ゆっくりと僕のほうへと視線だけ向ける。まるで懐かない猫がほんの少しだけ心を開こうとしている時みたいだ。そういう時はじっくり待つのが正解だってわかっている。それでも僕は、待てが出来ない犬のように一志さんの顎を掴む。一日中キスをして夜を明かすのも悪くない、そう思いながらまだ濡れているやわらかな唇を甘く食んだ。
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