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 思いきり一志さんの腕を掴んで抱き寄せる。「い、つき」カタカタと一志さんの体が震えている。それでも懸命に自分の足で立とうとしている。  一志さんを震わせていいのは僕だけなのにさぁ、しかもそれは恐怖からの震えじゃなくて、気持ちよさからの震えであって、こんなふうに一志さんを震わせるなんて、本当にありえないよね。  男は泥酔しているのか、足元がおぼつかない。ふらふらと「あぁ? んだよ、てめぇ」と酒くさい息を吐いた。 「お待たせ一志さん、遅れちゃって、ごめんね……っと!」  んだよ、てめぇはこっちの台詞ですよと優等生スマイルを浮かべ、酒くさい男の頬を思いきり殴る。人生で初めて人を殴ったわりには綺麗にヒットしたのか、男はバタンと音を立てて倒れた。  人を殴ると、自分の拳が痛くなるのか。初めて知った。ヒリヒリと痛む手にふぅーと息を吹きかけてから、まだ少し震えている一志さんの体を抱きしめる。  よかった、間に合って。本当によかった。だけど、お前は社会的に抹殺してやると倒れている男を睨む。あまりに上手く入ったのか、気絶しているらしい。七緒ごめんね、いろいろ迷惑かけるかもとラインしておこう。 「……五喜が、どうしてここに、いるんだ」 「言ったでしょ、今日七緒の誕生日だって。七緒の誕生日は本郷リゾートのホテルで祝うんだよ、それで七緒が毎年部屋を取ってくれるんだ――ごめん、もっと早く部屋に帰ればよかった」  そうしたら、一志さんは怖い目に遭わなかったのに。  強く一志さんを抱きしめると、一志さんはふるふると首を横に振った。 「……ちがう、五喜が来てくれたから、怖い思いなんてなにもしてない、本当に、ありがとう」  本当は怖いくせに僕を安心させようと、一志さんは笑っている。震えている手で僕の頬を撫でてくれる。こんな時さえ自分より他人のことを思いやる一志さんは本当に馬鹿だ。泣きそうになるのをぐっと堪え、一志さんの唇に優しく口づけた。 「僕の部屋行こう。この人のことならなんにも心配いらないよ、僕がなんとかするから」  いつも一志さんがしてくれるように、一志さんの前髪を撫でる。「……五喜、顔が怖いぞ」少しだけ一志さんは緊張が和らいだのか、ふっと笑った。一志さんの緊張が解けるなら、僕はいくらでも怖い顔になるよ。  七緒と三千留にラインを送り、一志さんの手を引いて部屋へと向かった。 「一志さん、とりあえずお風呂にでも」  入ってリラックスしなよと言おうとして、言葉がでなくなる。部屋に入った瞬間、一志さんはずるずるとその場に座り込んでいた。「ち、がうんだ、これは、別に、怖かったからとかじゃなくて」  必死に笑って、力が入らないことを隠そうとする。きっと一志さんは痴漢に遭うたび、必死に堪えてきた。家に帰って一人座り込んで泣いていた。でも、今はもう一人で堪える必要なんてない、僕がそばにいる。僕が守る。いつも一志さんが僕に言ってくれるじゃないか、ここには俺と五喜しかいないって。だから、取り繕う必要なんてないんだよ。 「ねぇ、一志さん。ここには僕と一志さんしかいないよ。だから大丈夫。無理して笑う必要なんてないよ、教師じゃなくて、ただの一志さんになっていいんだよ」  一志さんの手をとり、ゆっくりお姫様抱っこをする。さっきまで笑っていた一志さんはものすごく慌てた様子で「な、えっ、五喜、なん、で」ぱくぱくと口を閉じたり開いたりしている。可愛いなぁと上唇に吸いついて「力の入らないお姫様をベッドまで運んであげようかと思って」とふざけてウィンクを飛ばした。一志さんは黒い瞳を丸めてから「……誰がお姫様だ」と困ったように笑う。誰って、一志さんに決まっているでしょ。 「一志さんがガラスの靴を落としたら地の果てまで探しに行くし、毒リンゴを食べてしまったら僕が吸い出すし、呪いで深い眠りについたら目を覚ますまでキスをするよ――こうしてみると王子様ってやたらキスするなぁ。僕と同じでキス魔かもしれない。もちろん一志さん限定のキス魔だよ」 「……お前は、ほんと、真面目なことを言ったかと思えば、ふざけたことを言ったりして忙しいな」  眉尻を下げて笑った一志さんの瞳から一筋の涙が頬を伝う。いつも泣いている僕を、一志さんが優しく抱きしめてくれていたけれど、今日は僕の番だ。「僕はいつだって真剣に一志さんに愛を囁いているんだけどなぁ」寝室につくまでの間、一志さんの顔中にキスをふらせた。  一志さんを優しくベッドに下ろすと、片腕で一志さんを抱き寄せる。あの男が触れていた箇所をすべて撫でて、恐怖から心地よさに上書きしたい。  一志さんの目尻に溜まっている涙をキスして拭う。一志さんを泣かせていいのは僕だけなのに。一志さんはくすぐったそうにまつげを震わせてから、僕の手に優しく触れる。さっきあの男を殴った手が、かすかに赤い。この痛みは一志さんを守った勲章だ。 「痛かっただろ。五喜は人を殴ったことないんじゃないのか?」 「この痛みは僕の勲章だから気にしないで。僕のお姫様を守るためならなんだってするよ」 「……ありがとう、俺の王子様」  そう言って一志さんは僕の手にそっとキスを落とした。たったそれだけで、ぼうっと身体中が熱くなる。たぶん、どこもかしこも真っ赤だ。俺の王子様って反則でしょ、そんなこと一志さんに言われたら、頭がどうにかなっちゃうよ。ならないほうがおかしいでしょ。  真っ赤になった顔を見られないように、一志さんを腕の中に閉じ込める。「苦しいんだが」「一志さんが反則なこと言うからお仕置きで閉じ込めてるの」「意味がわからない」一志さんはふっと笑い声を上げると、僕の胸元に顔を埋めた。  うっっわ、かっわいい。なにこの生き物。すり寄ってくるの超絶可愛いんですけど。いつもは僕が一志さんにこれでもかと甘えているけれど、甘えたな一志さん、可愛すぎないか。  きっとこの人はいつだって気を張って、みんなに頼れる教師でありお兄さんをしている。甘える場所が、力を抜いていい場所が、どこにもなかったのだろう。それなら僕がその場所になる、なりたい。

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