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「……あの人も最初は子どものことで心底悩んでいたんだと思う。片親でどう接したらいいかわからない、去年俺が担任だったから相談に乗ってくれと言われて、どうにも断れなかった」  ぽつり、ぽつりと一志さんは呟く。  今日遭ったことを話してくれようとしているのだとわかった。怖いのに、思い出したくもないはずなのに、僕に話そうとしてくれている。それなら僕は全部聞かなくちゃ。聞いて、一志さんの居場所はここにあるよと言おう。言葉が詰まった時には、いつも僕にしてくれるように一志さんの背中を撫でよう。 「最初は向かい合って座っていたのに、酒を飲み始めたら俺のとなりに座ってきて、やたらとべたべたする人だとは思ったんだ。酒を飲むと絡むようになる人は一定数いるし、心底嫌だったが、大人として流そうと思った。具合が悪いから仕事にしてあるホテルまで送ってくれと言われた時も、はっきりと嫌だとは言えなかった。本当に具合が悪くて、寄りかかってきているだけかもしれないって、そう思い込んで、タクシーの中でも我慢した。部屋まで送り届けたら仕事は終わりだと、自分に言い聞かせて」  僕が冷静であるべきなのに、あの男の仕打ちを一志さんが口にするたびにひくひくと口の端がつり上がるし、自然と眉間にしわが寄る。鬼の形相とはこのことかもしれない。  僕はいつだって、僕自身が可愛い。僕自身のために利益になりそうな人を選ぶ。だけど、一志さんに出会ってから、初めて利益度外視でいいと思えた。前の僕だったらきっとあの男を殴らなかった。あの男を殴ることで僕に不利益が発生すると思っていただろう。それなのに、一も二もなく殴っていた。僕の感情を掻き立てるのは生涯ただ一人、一志さんだけだ。  すぅー、はぁー、すぅー、はぁー。息を吸って、ゆっくり吐く。自分の中の怒りを小さくするために、深呼吸をする。駄目だ。ぜんぜん収まらない。必死に一志さんの髪に顔を埋めてキスをする。あれ、ちょっと楽になった気がする。なにをしても苛立ちは抑えられないのかと思ったけれど、たったそれだけで穏やかになってしまう自分はなんと単純なことか。  ほんの少し余裕が出てきたところで、一志さんの背中を優しく撫でる。「いつもの一志さんの真似」そう笑うと、一志さんも微笑んだ。 「……エレベーターの中でも本当にしつこくて、それでも部屋までの辛抱だと思ったんだが、酔っ払いのわりに力が強くてな、必死に抵抗してもしつこく触ってくる上に、俺は学校に多額の寄付をしているから逆らったらどうなるのかわかっているのか、と脅された。当たり前だが、そんなことに屈する気はなかったのに、その人を殴る気にはなれなかった、子どもへの悩みを語っていた時は、真剣に悩んでいる親に見えたから。それでも、やっぱりこんな人に触られたくないって思ったから、お前の、五喜の名前を、叫んでいた――そうしたら、五喜が目の前にいるだろ、驚いたし、それ以上に、嬉しかった」  僕の胸から顔を上げた一志さんは、ぽろぽろと黒い瞳から涙をこぼす。そのくせ、本当に嬉しそうに笑っている。なんて忙しい人だと宝石より美しいその涙を指で拭いながら、安心させるように何度も優しくキスをした。 「ねぇ一志さん、僕に触られるのは気持ち悪くない?」  いつもみたいにふざけたトーンではなく、真剣に、一志さんの目をしっかり見て言った。  あの男には嫌悪感しか抱かなかっただろう一志さんが、僕の言葉には頬を赤く染めて恥ずかしそうにしている。気持ち悪くないとそう捉えてもいいはずだ、だって、一志さんの顔がそう言っている。  背中を撫でていた手をゆっくり下げて、細い腰に触れる。一志さんは恥ずかしそうに身を捩るけど、顔を歪めたりはしていない。嫌じゃないけれど、どう言葉を返せばいいのかわからないと言ったところだろう。それなら、もう少し触れていいはずだと、一志さんの小ぶりなお尻に触れる。びくりと体が震えるけれど、僕を押し退けようとはしてこない。やわやわと尻たぶを揉みしだきながら、こめかみにちゅっとキスを落とす。 「ん、んンっ……いつき、……ッ!」  気持ちいい。一志さんの甘い声が、そう言っているように聞こえた。 「僕のことを気持ち悪いと思わないなら、あの男が、今まで勝手に一志さんを暴こうとした男たちが触れたところ、ぜんぶ上書きする。大丈夫、一志さんにとって気持ちいいことしかしないから」  視線をうろうろと彷徨わせた一志さんが、ようやく僕のことを見る。褐色肌に赤はよく映える。一志さんの目元が、頬が、耳が赤く染まるたびに思う。 「……眼鏡、外してくれないか。ただの五喜として、俺に触れてほしい」  ああ、もう、一志さん、可愛いがすぎるでしょ!  欲望に火をつけるには十分すぎる言葉だと眼鏡を乱暴に外して、サイドテーブルに放り投げる。顔を隠している前髪も勢いよく掻き上げると、ぐしゃぐしゃと掻き乱した。  これで僕はもう広尾五喜じゃなくて、ただの五喜だ。ただの五喜として、ただの一志さんに触れる。僕のスイッチを押したのは一志さん自身だからねと、一志さんの頬にかかる髪を耳にかけ、優しく口づけを交わした。

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