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触れて、とろける

 七月の満員電車は地獄だ。ただでさえ暑苦しいのに、体臭を気にしていない男性や朝からくたびれているサラリーマンたちのせいで車両全体が鬱屈としている。それでも僕がなんとか耐えられているのは、目の前にそれらをすべて吹き飛ばしてくれる清涼剤がいるからだろう。チラリと清涼剤――一志さんを見つめると、視線が合う。一志さんはやわらかい口をかすかに開き「どうした」と声に出さずに言うから、僕も「どうもしていません」とにっこり声に出さないで口だけ動かした。なんだそれと一志さんは少し笑うが、すぐに表情を引き締めて僕から視線を逸らした。  一志さんは扉に背を預け、僕は一志さんを守るように両手を扉に突いているけれど、会話を多く交わしたりはしない。電車の中は公共の場、ここでの僕と一志さんはただの生徒と教師だ。他に生徒が乗っているかもしれない。会話をしない分、一志さんをまじまじと観察することができるこの時間がたまらなく好きだったりする。  一志さんにバレないように、一志さんのことをじっくり観察する。夏でもかっちりスーツを着こなすのは真面目な一志さんらしい。清潔感あふれる白いシャツ、一番上まで締められたネクタイ。それなのに一志さんの持つ色気は隠れない。このシャツを捲り上げて、美しい鎖骨を、薄いお腹を、敏感すぎる胸を、愛したことを思い出す。そして、この間はスラックスに隠されたすべすべした太腿で――朝から一志さんの痴態を想像して、思わず喉がごくりと鳴ってしまった。やばい、これじゃあ僕が痴漢になりそうだと必死に素数を数える。  一志さんが男に襲われそうになったあの日から、僕たちの関係はぐっと近くなった。精神的にも、物理的にも。きっかけが、一志さんが襲われそうになったということなのがものすごく腹が立つが、あの男は三千留と七緒のおかげで一志さんに近づくことがなくなったからよしとしよう。それにあの男のおかげで、一志さんは「ただの神谷一志として、ただの広尾五喜と気持ちよくなりたい」と言ってくれた。あの日から一志さんは本当に僕を気持ちよくしてくれるようになった。冗談のつもりで言った素股も、この間初めてしてもらったけれど、夢心地でそのままで死ぬかと思った。もちろん気持ちよかった、でもそれ以上に素股という行為に恥じらいと快感を覚えて戸惑っている一志さんがとにかく可愛い。あまりにも興奮して「早く心も体も僕のものになってよ」と囁きながら体中にキスをしまくったせいで、次の日褐色肌に赤い花が大量に散っていることに気づいた一志さんにめちゃくちゃ怒られたのもいい思い出だ。  あー、広尾五喜、朝からやらしいことを考えすぎだよ、自重しよう。素数を数えようとしていたはずだよね? それなら大人しく素数を数えようね。  頭の中の優等生広尾五喜が僕を宥める。はぁい、素数を数えまーす、でも僕文系だから変格活用を唱えるほうがいいかもしれない。なんたって古典は一志さんの担当だし――なんでも一志さんに結びつける自分に笑いそうになりながら、必死に優等生顔を作ろうと眼鏡のブジッジを押し上げた。 「神谷先生、この間の授業でわからないことがあったので教えてくれませんか?」  学校に着くとすぐさま職員室へ向かおうとする一志さんの腕をそっと掴む。学校では生徒と教師だとわかりながら、少しでも一緒にいたくて、咄嗟に掴んでしまった。誰かに見られたらやばいと手を離し「職員室だと他の先生方の迷惑になりそうですし、教室でもいいですか? この時間ならまだ誰も来ていません」にっこり優等生の笑顔を浮かべる。 「わかった、教室に行こう――広尾でもわからないことがあるんだな」 「もちろんありますよ。たとえば、古典文学にでてくる人たちの心がまるでわかりません。三日夜這いを継続させたら正式に結婚、なんて現代じゃありえない結婚観ですよね。そもそも一夫多妻や通い婚というのも納得できません。僕はたった一人の心と体を毎日愛したいですから。たった一人が僕のものになってくれたら、朝から晩まで離すつもりはありませんよ」  そのたった一人は言うまでもなく一志さんですよ。  口にはしなくても、一志さんには十分伝わっているだろう。だって、となりに並ぶ一志さんの耳が真っ赤だ。 「神谷先生、どうして真っ赤なんですか?」  にっこり笑って一志さんの顔を覗き込むと、一志さんは唇をわなわなと震わせる。 「……どうしてだろうな、広尾の心に聞いてみたらいいんじゃないのか?」 「僕の心に? たった一人の人が早く僕に振り向いてくれないかなぁ、今すぐ真っ赤な耳にキスしたいなぁって思って「や、やめろ馬鹿!」  慌てた様子の一志さんに口を塞がれ、思わず声を上げて笑った。はぁ、なんでこんなに可愛いんだろうな。僕に振り回されている時の一志さんは最高に可愛い、僕を振り回している時は最高に魔性なのに。  誰も廊下にいないことを確認して、一志さんの手のひらをぺろりと舐める。ビクッとあからさまに肩を跳ねる一志さんは最高にえっちだ。そんな顔されたら、うっかり雄のスイッチが入ってしまう。 「おっ、お前、な、にするんだ、ここ廊下、……ッ」  さっきよりもっと真っ赤になって震える一志さんの肩に腕を回して、素早く教室の中に入る。やっぱりこの時間帯なら誰もいない。次にこの教室に来るのは、四信さんの自主練につき合うようになった旺二郎だ。それまでは二人きり。一志さんの腰に腕を回して、真っ赤な耳殻にカプリと甘く歯を立てる。

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