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口づけはひそかに

「……キスシーン? そういうのはちょっとやりたくないんだけど。僕一志さん一筋だし、学校では優等生として通っているし」 「お前は清純派女優か。まあ、そういうと思ったからキスをするふりで手を打った」  短いコマーシャルでも台本があるとは知らなかったな。三千留がローテーブルの上に置いた『十二時の鐘が回っても解けない魔法』をコンセプトにした人気化粧品ブランド新作の台本を眺めながら思った。  八月に入ると三千留は僕の家に押しかけては「仕事を持って来た」「今日は雑誌『メンズユース』の撮影だ」「ウォーキングの練習に行くぞ」僕に休みなんて与えるものかと仕事を持って来た。僕が一志さんの家に行っている時はさすがに察してくれて邪魔をしたりはしないけれど、そのかわりに怒涛のラインメッセージ。  一志さんが痴漢にあわないために一緒に電車に乗って学校まで送り届け、家でのんびり一志さんからの帰りの連絡を待つかと考えた矢先に三千留からの電話。「お前の魅力を最大限に引き出すコマーシャルをもらったぞ」電話越しでもわかるほど三千留の声は弾んでいた。大口の案件なのだと察し、すぐに家へと帰宅。訪ねて来た三千留からもらった台本を眺め、真っ先に思ったのは「やりたくない」だった。  コマーシャルの主人公は疲れている女性。毎日残業でぐったり。倒れこむように眠る日々が続く中、ミステリアスな美青年と出会う。 「僕が解けない魔法をかけてあげる」  青年が彼女の唇をなぞると、モノクロだった彼女の世界がぱっと色づいて変わっていく。化粧っ気のなかった彼女に魔法がかかり、化粧が施される。そうして、美しく変わった彼女に青年はキスをする。「ね、解けないでしょ」青年は微笑んで、商品名を彼女の耳元で囁いてコマーシャルは終わる。  なんとも思っていない相手にキスをしたくない。以前なら平然とできただろうけれど、今は一志さんとだけキスをしたい。一志さんとイチャイチャしたい。  学校がある期間に比べたら、圧倒的に一志さんとイチャイチャできている。前までは一志さんの部屋で過ごすことが多かったけれど、最近は僕の部屋にも訪ねて来てくれる。朝も夜もずっと一緒だ。それでも僕には足りない。毎日一志さんを抱いても満足できないし、むしろ抱けば抱くほどほしくなる。それもこれも一志さんが色っぽくて、可愛すぎるせいだ。普段から可愛いのに、セックスしている時の破壊力といったらない。  快感で潤んだ黒い瞳、褐色の肌が赤く色づき、汗ばむ体。僕に縋るように回される腕。泣きそうな声で「いつき」と呼ばれるとぞくぞくして我を忘れてしまう。  思い出しただけでにやけそうになるから必死に堪え、再び台本を手に取った。 「ウェブ限定のコマーシャルのほうなんて、キスしてるうえにイチャイチャしてる感じが最悪だね」  テレビ放送版は十五秒、三十秒が基本。だけどウェブ限定のコマーシャルは百秒を超えることが多い。このコマーシャルも例外ではない。  ウェブ限定版は、女性側ではなく青年の視点で進行している。毎日仕事で疲れているのに、弱音を吐くことなく戦う女性に恋をしている青年。彼女のためにしてあげられることはなにか? 考えた末に残業から帰って来た彼女に「おかえり」と抱きしめ、頭をぽんぽんと撫でる。「今日もお疲れ様」彼女の髪に、頬に、そして青年が魔法をかけた唇にキスをする。  これが一志さん相手から喜んでやる。今すぐにでもやりたい。むしろ今日仕事が終わった一志さんにやろうと思ってしまうほど、夢が詰まっている。 「最近はテレビ放送版よりもウェブ限定のほうが凝っていたりするからな――五喜、お前がこの世界で生きていくと決めているのならキスシーンや女優との絡みは必ず通る道だ。これは仕事、ビジネスだ。やりたくないと言って、はいそうですかとすませられる問題ではない。いくつも顔を持っているお前だからこそ公私混同せずにこのコマーシャルをこなせると思っているんだが、どうなんだ。この程度もこなせないのか、お前は」  今の三千留は親友でも王様でもない。完全に芸能事務所『3Bloom』の社長だ。  三千留が言っていることはどれもこれもドがつく正論。事務所に誘ってくれたのは三千留だけれど、やると決めたのは僕。それなのにキスシーンが嫌だ、イチャイチャしたくないだ、なんてみっともないのだろう。一志さんがここにいたら怒られる気がする。「一度やると決めたことならしっかりやれ」きっと一志さんなら笑顔で僕の背中を押してくれるはずだ。 「いやだなぁ、三千留。僕を誰だと思っているのかな」 「そんなの決まっている。俺様の事務所の看板俳優、になる予定の男だ」 「そうだよ、僕は『3Bloom』の看板俳優、になる予定の男『五喜』だよ。キスだろうとなんだろうと平気な顔をしてこなしてみせるよ」  フルネームで活動しようかと思ったけれど、あの広尾家の次男といきなり騒がれたくなかった。いずれはバレるだろうけれど、それは僕の顔が知られた頃に公表したい。そう言った僕の気持ちを三千留は受け入れてくれ、芸名は『五喜』でいくことにした。名字がないと、しっかり自分の足で立たなければいけない責任感もでる。 「さすが俺様が見込んだ男だ。主役は相手役の女だが、視聴者の記憶に残る演技をしてくれ。あの美しすぎる青年は誰? とネットニュースに上がるくらいにな」  三千留は僕の肩を叩くと、ソファーから立ち上がる。もう帰るの、少し休んでいけばと引き止めたかったけれど、社長業を始めてからの三千留は本当に忙しい。それでも顔色が悪く見えないどころか、日に日に美しくなっているのは王様を支える男たちのおかげだろうか。 「ここからは俳優の『五喜』じゃなくて、親友としての話をするよ。千昭さんと歩六さんとは仲良くしてるの」  まぁ、聞かなくてもわかるけどね。  トントンと自分の首筋を叩く。三千留は白い頬を赤く染め、勢いよく首筋を手で隠した。  隠したところで、千昭さんと歩六さん、二人の男につけられた跡はしっかりこの目で見た。それも一度や二度ではない。見えるところにつけられるのは少し羨ましい。一志さんは褐色肌だから目立たないだろうけれど、それでも見えるところにはつけられない。本当は僕のものだと全世界にアピールしたいけれど、我慢している僕ってえらい。

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