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口づけはひそかに_06
「……食中毒? だが、延期をするわけにはいかないだろう」
「そうですね、五喜くんのスケジュールも詰まってますもんね。今日しかないから代役を立てるしか」
メイクルームで髪をセットされている中、三千留が男性スタッフとなにやら神妙な顔をして話している。「まだ所属タレントが少ないからお前の現場についていく、少しの間お前のマネージャーは俺様だ」社長自らマネージャーをしてくれるなんて恐れ多いと思いながら、三千留がいると本当に心強い。
伊達眼鏡を外され、化粧が施されていく。そうすると気持ちが広尾五喜から『五喜』になっていくから、化粧は偉大だ。「五喜くんは肌が綺麗だからメイクとかぜんぜんいらないくらいよね」この業界に入って、撮影のたびに褒められてきた。容姿は優れている自覚はあったが、自分の肌が綺麗だなんて思ったことはなかった。僕より一志さんの肌のほうがすべすべとなめらかだからかもしれない。
「どうかしましたか。なにかトラブルでも?」
視線は目の前の鏡に向けたまま、三千留たちに聞こえるようにしゃべる。三千留たちがこちらに向き直り「ハルカさんが食中毒になっちゃったらしくて」スタッフの一人がものすごく焦ったように呟いた。
ハルカさん――ああ、今回の相手役の女優か。名前を聞いただけでは思い出せないほどに興味がないとぼんやり考えていた矢先、食中毒というワードが頭に飛び込む。え、食中毒? じゃあ今日の撮影は延期ってこと? それなのにどうして僕はメイクをされているんだ?
「じゃあ三千留さんが女装するってのはどうですか?」
「それありかもですー! だって三千留さん、そんじょそこらの女優さんより美人ですもん!」
メイクさんたちがきゃっきゃっと楽しげに冗談を言う。よくこの状況でそんな冗談が言えるなと思いながら、顔だけは笑顔をキープしていると三千留はなにか思いついたように「それだ」と指を鳴らした。
「えっ、三千留さんが女装してくれるんですか?! ぶっちゃけそれはありです!」
男性スタッフは三千留の手にすがりつくが、三千留はなにを馬鹿なことを眉根を寄せる。
「俺様が女装するわけないだろう、もっといい代役を立てる。男で俺様よりも上背はあるが、あの色気はそんじょそこらの女優だって敵わない。女性の台詞を少なくして、五喜をメインにすれば上手くいくはずだ。すべての責任は俺様がとる」
「三千留さぁん、あざっす! ディレクターに相談してきます!」
男性スタッフはメイクルームから飛び出し、三千留は僕に説明することなくどこかへ電話をかける。スマホを耳に当てながら「五喜のメイクを続けてくれ、撮影は予定通りやる」とメイクさんたちに指示を出す姿は、まさしく王様だ。
「三千留さんが年下とは思えない。咄嗟の判断力、正直現場にいる誰よりもあるよね。五喜くんと同じ学年でしょ? そもそも五喜くんも十六には思えない落ち着きあるよね」
「社長に比べたら僕なんてまだまだですよ。日々勉強させてもらっています」
公共の場では『社長』と呼ぶ。それは僕が決めたルールだ。幼なじみの親友ではあるが、そうすることで公私混同を避けられる。三千留も「俺様はお前のそういうところ好きだ。ただし、二人きりの時はいつも通りでいい」と笑って了承してくれた。
「もーそういうとこ! そういうとこが十六じゃないよね! この美貌でその落ち着きは絶対人気でるよね、今から五喜くんの活躍が楽しみだもん」
「ありがとうございます。今度『メンズユース』に載るので良かったら買ってくださいね」
鏡越しにメイクさんたちに向かって優等生スマイルを浮かべる。女性たちの目がハートになるのをひしひしと感じて、僕の需要がちゃんとあることを実感する。
「うわーちゃっかりしてるーメンユーは愛読書だけど、五喜くんのために何冊でも買っちゃうよ」
「保存用、普及用、読む用で買っちゃお!」
「本当ですか? 一冊サインさせてくださいね」
「もー五喜くんのファンになっちゃう! むしろなってる!」
社交辞令か、本音か、彼女たちの瞳を見れば一目瞭然。こうやって、着実にファンを増やしていこう。自分で仕事を選べるようになるくらいに。キスシーンや絡みのある恋愛ドラマをやらず、硬派な演技ができるように。今は三千留が持ってきた仕事をこなすまでだ。
「五喜くんメイク終わったよ! うーん、最高傑作できたわー」
「ありがとうございます、自分じゃないみたいです」
これは社交辞令ではなく本音だ。眼鏡を外し、前髪を掻き上げ、最低限ではあるけれどメイクを施されると、広尾五喜から『五喜』になる。
「もー、五喜くんったら口が上手いんだから! 三千留さん、メイク終わりましたー。一旦部屋から出ますが、相手役の方がいらしたら連絡ください」
メイクさんたちが電話をかけている三千留に向かって小さな声で囁やく。三千留はスマホを手に持ちながら「五喜を良い男に仕上げてくれてありがとう、きっと良いコマーシャルになる」満面の笑みで言った。この人こそ芸能人になるべきでは? みんなが感じたであろう惚れ惚れする笑顔。
「目が眩しい」「三千留さんスマイルぱねぇ」メイクさんたちはこそこそ話しながら、メイクルームから出て行き、電話を終えた三千留がぼくのとなりに腰を下ろした。
「相手役は一志に頼むことにした」
「……え?」
三千留は今なんて言った。カズシというのは、僕が知っているあの一志さんのこと?
「二人で読み合わせしたのだろう? 一志のことだ、台詞は完璧に覚えているはずだ。衣装はパンツスーツにして、ウィッグを被せ、完璧にメイクを施せば一志のことだ、魅力的な女性に変身するだろう。なにより、一志相手ならお前はキスシーンだって出来る。これ以上ないほどに適任だ」
どうしよう、頭がまったく追いつかない。
兄が羨ましいだの、僕のヒロインになってほしいだの思ったけれど、実際にその状況がなるとは思わなかった。じゃあさっきまで三千留が電話をしていた相手は一志さんなのか?
「……さっきの電話は一志さんにかけていたの? 一志さんは、了承してくれたの」
「ああ。最初は無理だと言われたが、最終的には腹を決めてくれた。さすが五喜の男だ、肝が据わっている」
「うん。僕よりよっぽどね」
さすが僕の一志さんだと微笑むと、三千留も上機嫌に口角を上げた。
「ちなみに教師って副業大丈夫なの」
「副業がNGなのは公立教師だけだし、これは副業に当たらないだろう。いわゆる人助けだ。だから問題ない」
謎理論を発揮する三千留に軽く噴き出す。まぁ三千留が言うなら大丈夫だろう、そんな考えに至ってしまう僕もかなり毒されている。
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