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【33/優斗】花見
誰もいない休憩室。古い作業用テーブルに座って待つ。やがてタオルを持った山田さんが、小走りに現れた。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
工場の隣には、だだっ広い駐車場があり、そこには数本だけだが桜が咲いている。そこで花見をするのが、毎年恒例の人気行事らしかった。飲み物も食事もそれなりに豪華で、全てが無料だ。一部の社員が給仕してくれるため、僕たちは騒ぐだけで良かった。
そんな花見の席で、山田さんが僕の下半身に、盛大にお茶をこぼした。だからこうして、花見の席を抜け出している。
「ごめんね、結構派手に濡れちゃって……ドライヤーで乾くかしら?」
「もう帰るんで大丈夫です」
「ならせめて、しっかり拭くわね」
「あの、自分で拭くんで……」
「私が悪いんだもの、私にやらせてちょうだい」
ポンポンとタオルを押し当てる。山田さんが悪かったとはいえ、こんなに丁寧にしてもらうと、なんだか悪い気がした。
しばらく申し訳ない気持ちで眺めていたのだが……やがて山田さんは、僕のベルトを外し始めた。慌てて制止する。
「ち、ちょっ、山田さん!?」
「拭きづらいから脱いでもらえる?」
「いや、もう十分ですから、いいです、大丈夫です、ありがとうございましたっ」
山田さんが上目遣いに笑う。
「慌てちゃって可愛いわね。何を考えたのかしら?」
「え?……あの……え?」
「ちゃんと乾かしてあげるから、ほら脱いで」
「や、ちょっ……やめっ……」
山田さんが僕の足を撫でる。そして香水の香り……吐き気がした。逃げたいのに身体は固まってしまい、目を閉じるくらいの抵抗しかできない。
「セクハラですよ?」
と、いつの間に現れたのか、大輔さんが入り口に立っていた。冷ややかな笑みが、山田さんを責める。
「あら、良いとこだったのに。邪魔するなんて悪趣味ね」
山田さんは少しイラついた様子で、僕から離れた。
「そいつ嫌がってますし、動画撮ったんで、なんかあれば山田さん不利っすよ?」
「なんですって?」
大輔さんがスマホを軽く振って見せる。
それを奪おうと駆け寄る吉田さんの腕を、大輔さんはあっさりと掴んだ。
「い、痛っ」
「そんな強く掴んでませんけど」
「女子にこんなことしてもいいと思ってるの?」
「どこに女子が? あぁ、もしかして自分の事を言ってます? 女子とか言っちゃうおばさんってヤバいっすよ?」
「最低っ……覚えてなさいっ」
山田さんは、挑発的に笑う大輔さんの腕をふりほどき、顔を真っ赤にして外へ飛び出していった。
部屋に静けさが戻る。
大輔さんはテーブルに歩み寄り、椅子にかけられた上着を手にとると、何事もなかったかのように出ていこうとした。
「……あ、あのっ」
僕は慌てて声をかけた。
「ありがとうございました」
「別に。たまたま上着をとりに来ただけだし」
大輔さんは、グイグイ来る時と、クールな時がある。
以前、寝起きや疲れている時は話すのが面倒になると言っていた。
「でも、おかげで助かりました」
クールな大輔さんは、話しかけられることを好まない。でも、お礼くらいは言おうと思った。
「ありがとうございました」
頭を下げてお礼を伝える。大輔さんは、柔らかな微笑みで答えてくれた。その微笑みのおかげで、一気に緊張がほぐれる。
もし大輔さんが来てくれなかったら、どうなっていただろうか。山田さんが僕に触れて……きっと……。
つい想像してしまった。強い吐き気に襲われる――。
「お、おい大丈夫か? おい!」
想像しちゃダメだと思っても、もう遅かった。そう、僕の意識は遠のいた。
***
「ん……」
「あらっ、本当にお仲間なのね?」
わずかな頭痛と違和感。
辺りを見回すが、知らない部屋だった。
「ここは……」
「ワタシの部屋よ」
部屋中にかけられたカラフルな服が目に飛び込む。ごちゃごちゃと物が多く、統一感もない。でも汚いわけではなく、きちんと整理された部屋だった。
「優斗ちゃん!」
「ぐえっ」
突然、大輔さんに抱きつかれた。
「なぁんか放っておけないと思ってたの。きっと似た者同士、惹かれ合っていたのね」
「だ、大輔さん?」
意識がはっきりしてくると、違和感の正体が明らかになった。大輔さんの口調がおかしいのだ。
「あら、ワタシは大輔じゃないわ。ミカさんって呼んで?」
「え? ミ、ミカさん?」
「そうよ、ミカ。身体はこんなだけど、ワタシは女よ?」
「女……の人?」
ミカさんを押し戻し、上から下まで眺める。どう見ても大輔さんだった。だが、柔らかな表情や仕草は、いつもの大輔さんとかけ離れている。
まるで別人……別人? まさか。そんなはずは……でもっ。
一つの考えが浮かんだ。
「さっきユウちゃんとも話したわ」
「えっと、だい……っじゃなくて、ミカさんは……もしかして……」
「そう、いわゆる多重人格。この身体はね、優斗ちゃん達と同じなの」
予感が的中した。信じられないことに、大輔さんは僕と同じ病気だったのだ。
***
「あの、ユウと何を話したんですか?」
「何って、色々よ」
「僕も聞きたいことが――」
「待って」
ミカさんは片手を上げて、話を遮った。
「話せば長くなるし、ワタシも優斗ちゃんの話には興味があるの。今日は泊まったら?」
そう言われて時計を見る。21時を過ぎていた。
「あの……泊まりたいです」
やがて吐き出した言葉がそれだった。
「ちょっと電話します」
「どうぞ」
和馬は心配するだろう。だが、知りたいと思った。ミカさんと大輔さんの関係に、今後のヒントが隠されているような気がして、帰る気持ちにはなれなかった。
聞きたいことがありすぎて、考えがまとまらない。だから、時間を気にせず話すためには泊まるしかないと思った。
「もしもし優斗? 大丈夫か?」
電話はすぐに繋がった。
「うん。連絡遅くなってごめん……あの、さ。今日先輩のうちに泊まりたいんだけど、いいかな?」
「え……」
不安そうな声と間。でも、今の状況を上手く伝える余裕はなかった。
「優斗、先輩って誰だ?」
「帰ったら説明するよ。で、泊まっていいの?ダメなの?」
「それは優斗の自由だが――」
時間をかけるわけにはいかない。和馬に時間を与えたら、きっと帰ってこいと言われてしまう。
「じゃあ、今日は泊まってく。ごめん、明日色々話すから」
「あ、いや――」
「心配かけてごめん、おやすみ和馬……」
強引に通話を終わらせた。スマホを鞄に突っ込み、ミカさんをまっすぐ見つめる。
「さ、何から話しましょうか」
ミカさんは足を組み、首を傾げて微笑んだ。
「夜は長いわ」
クッションを手繰り寄せ、抱きしめる。僕は恐る恐る口を開いた。
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