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【40/蒼生】温泉

 和馬くんとの旅行は交代がうまくいかなかったらしく、ユウが山に登ったと聞いたよ。なら、俺との旅行では逆のことが起こるかもしれないなんて思ったのだけれど、無事にユウと温泉宿に到着することができた。 「すごい!」  ユウは嬉しそうに窓際の椅子へ座る。俺も向かいの椅子に座って、窓の外を眺めた。 「川側の部屋にして正解だったね」  ユウは大きく頷きながら、用意されていたお菓子を手にとった。 「あとで外を歩いてみようよ!」 「いいね、温泉街でお土産も買おうか」 「うん!あと温泉まんじゅうも食べたい!」 「分かったよ」  無邪気に笑うユウを眺める。高校生の頃に願ったことが、現実になった喜びを噛み締めた。 ***  温泉街を軽く観光すると、早々に部屋へと戻り、読書をした。  川のせせらぎが聞こえなくなるほど本の世界へ没頭していたからね、気づけば外が暗くなり始めていたよ。 「ユウ、そろそろ温泉に入ろうか」  本を閉じながら声をかけたけれど、返事はなかった。見れば畳の上で寝転ぶユウは、顔に本を乗せて眠っていた。  読んでいる途中で眠ってしまったんだろうね。俺は本をそっと持ち上げて、眠るユウにキスをした。このキスで目覚めるのは、ユウか優斗か、どっちだろうなんて考えながら頬を撫でたけれど、どちらが目覚めたとしても、一緒にこの旅を楽しめたら良いとも思っていた。 「ん……」  やがて、ゆっくりと目が開いた。 「あおぴぃ……そっか、今日は……」 「おはよう、優斗」 「ごめん、旅行中だよね?」 「大丈夫、気にしないで」  朝から夕方まで、こんなにも長い時間ユウでいることは珍しかった。だから実はなんとなく分かっていたことだった。  優斗はゆっくり半身を起こすと、申し訳なさそうに俯いた。俺はそんな優斗に座椅子を勧めながら、様子を観察した。 「体調はどうだい?」 「大丈夫……」  相変わらず、人格交代直後は苦しそうだった。  優斗は頭をおさえながら、座椅子の背もたれへ寄りかかる。 「温泉に入ったら、少しはスッキリするんじゃないかな」 「うん……」 「一緒に入るかい?」 「えっ」  一応、ダメ元で誘ってみた。温泉はこの旅のメインイベントだからね。 「ユウと和馬くんだって登山を楽しんだんだよ? 優斗が温泉を楽しんでも、誰も文句は言わないさ」 「そうだけど……」 「……っと思ったけど、やっぱり交互に入ろうか。俺は部屋で待っているから、ゆっくり入っておいで」  でも、すぐに諦めたよ。嫌われたくはないし、優斗が警戒する理由も分かるし、困らせるのはやめた。 「俺はこれを読み終わったら入るよ」  そう言って、さっき読み終えた本を持ち上げてみせた。 「ごめん、ありがとう」  優斗はあからさまに安堵した。  俺は、胸の痛みを誤魔化すように微笑んだ。 *** そして夜―― 「ここの電気だけはつけておくね」 「うん」 「おやすみ、優斗」 「うん、おやすみ」  優斗の心の傷は深い。心の距離も、身体の距離も、人一倍敏感で、繊細だ。  俺はゆっくりと目を閉じた。今は、逃げ出さずに隣にいてくれることだけで満足するべきだし、特別な夜だからこそ余計な接触を避けることが、優斗の信用につながると考えたんだ。 「ねぇ、あおぴー……」  暗闇の中、シーツの擦れる音が静かに響く。 「ん?」  薄明かりの中、優斗が身を起こした。 「どうしたんだい?」 「やっぱり、ユウと過ごしたいよね?」  少し思いつめた様子を感じとり、俺もゆっくりと半身を起こした。すると優斗は、ぽつりぽつりと話し始めたんだ。 「僕この前さ、和馬との旅行を楽しみにしすぎちゃって……感情が高ぶりすぎて失敗しちゃったというか……自分が悪いのは分かってるけど、でもユウにヤキモチをやいたんだ」  優斗は身を乗り出し、距離を詰めてきた。  着崩れた浴衣から見える首筋が優しく照らされて、俺を甘く刺激する。  慌てて目を逸らし、優斗の話に集中した。 「だからさ、この旅行……ユウに代わってあげないと……きっとユウは僕があおぴーと過ごしたら傷つくと思うんだ」  どうやら優斗は、ユウに気を遣っているらしかった。  旅行中の交代は想定内だし、優斗に悪気がないことも分かっているし、それに何より、ユウは前の旅行を楽しんでいるからね、さすがに文句は言わないだろうと思った。お互いさまってやつさ。 「大丈夫、後でフォローしておくよ」 「でも――」 「ほら、今日はもう寝よう」  安心させたくて、なるべく優しく微笑んでみせた。そして不安そうな優斗の肩をやんわり押して寝かせて、布団をかけた。  だけど、おやすみと呟いて自分の布団に戻ろうとした俺の腕を、優斗は力強く掴んだ。  ……何故か、その手は震えていたよ。 「交代、たぶん出来るから……」 「どういう……っ!」  その意図を理解するより先に、優斗は両腕を俺の首に回した。予想外に引き寄せられバランスを崩し、覆い被さる。なんとか手をついて最低限の距離を保ったけれど……至近距離で吸い込んだ湯上りの香りは危なかった。もう少しで理性が崩壊するところだったよ。 「温泉も、豪華な夕食も、僕が奪ってしまったから……夜、ゆっくり話したいことだってあったでしょ?」 「そりゃあ、話せるなら……でも――」  正直に言えば、夜も楽しみたいのが本音だけどね、今の優斗は様子がおかしくて心配だった。 「もう寝よう」  優斗の腕を優しく剥がす。だけど優斗は、なおも俺の手を握り、懇願した。 「僕に触れてよ」 「優斗?」 「ユウだと思って、好きにしてみて」 「それはどういう……」  俺は戸惑った。必死に堪えているのに――。 「僕は自力じゃ交代できないけど……怒らないから、後で文句言わないから、僕が辞めてって言っても辞めないで……いいからっ……」  優斗の目からは涙が溢れた。 「だから僕に触れて。ユウと交代させて。ユウはきっと待ってるはずだからっ……」  胸が苦しかった。優斗は俺に触れさせることで、強制的に人格交代をしようとしているんだ。 「優斗っ……」  俺も、傷ついた。  これは優斗の好意だ。俺とユウの旅行を邪魔しないために、優斗なりに考えてくれたのは分かるよ。でもね、すごくショックを受けてしまったんだ。 「気持ちは嬉しいよ。でも、俺は優斗を犠牲にしてまでそんなっ……そんな男だと、思っていたのかい?」  我慢できなかった。俺は俺なりに、優斗のことも大切にしてきたつもりだった。なのに俺の気持ちは1ミリも優斗に伝わっていない……そう感じた瞬間、涙が頬を伝った。 「そうじゃなくて、2人のために――」 「俺とユウのために? なら、俺が君を傷つけることに対しては何の罪悪感も持っていないとでも思っているのかな?」 「そ、そういうわけじゃなくてっ――」 「初めて会ったあの日のキスだって、優斗を傷つけるつもりはなかった」  初めて会ったあの日を思い出す。優斗との出会いは最悪だった。 「ねぇ……ユウを愛してしまった俺は、優斗を苦しめる存在でしかないのかな?」  いつもの距離が保てない。優斗にも好かれたくて、必死に被ってきた仮面が剥がれる。 「俺はどうすれば君に近づけるんだい? それとも――」  優斗の髪に手を差し込む。俺の涙は優斗の頬や浴衣を濡らした。 「いつまで経っても、俺のことは……」  言葉に詰まる。優斗の返事が怖くて、最後まで言えなかった。  優斗はずっと、ごめんと呟いていた。

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